2023年5月29日月曜日

四坊高坂山


 波自加彌神社は奈良時代に四坊高坂に創建されたと伝えられる。波自加彌神社誌には下記のように書かれている。

金清水の波自加彌神社の旧鎮座地は、現在の四坊高坂町八幡神社の辺りである。四坊高坂山はこの八幡神社の背後に聳えている。四坊高坂山は擂鉢を伏せたような秀麗な山容であって旧花園村(田近村、および花園村、崎田村)の最高峰で旧森本町でも第二の高さを有する。

左の写真は内灘の道の駅から河北潟越しに東の方を写しているが、将にその秀麗な姿を見ることができる。

古来、高く美しい山は信仰の対象で、富士山や白山、立山など全国に見られる。高坂山は標高200mくらいで高山とは言えないが、そのような対象であった可能性がある。この周辺には縄文遺跡も見つかっているので、そのころから多くの人々が暮らしていた。山は住みやすい豊かなところだったのだ。波自加彌神社の創建は奈良時代とされているが、実際はもっと古いのではないだろうか。

2023年5月3日水曜日

波自加彌神社と善照坊(5)

 

石川県立歴史博物館蔵

波自加彌神社と善照坊(3)で善照坊が河北潟水運の勢力から支持を受けていたという推論を述べたが、ほぼ同じ内容の記述が既にあることを見つけた。

角川日本地名大辞典の石川県吉藤村についての解説記事である。以下にその内容を転載する(下線は著者)。善照坊と専光寺が日本海や内陸の流通路を把握していたようだ。

 

(中世)鎌倉期から見える村名。加賀国石川郡大野荘のうち。正中2年9月24日の大野荘地頭得宗家代官足立三郎左衛門入道厳阿の注進に基づく「大野荘臨川寺領目録」に,地頭分としてあらわれる「吉藤新保」が初見(天竜寺文書)。惣田数14町7反5代,除1町8反,定田12町9反5代,米173石8斗2升,銭6貫400文と注進されている。おそらく黒田村の一部が,下地中分によって,もとの村から分離されたものであろう。永享9年9月25日の真宗大谷派専光寺所蔵「三帖和讃」奥書には,「賀州吉藤専光寺常住也」と見える(銘文集成)。蓮如が吉崎道場を開く34年前,すでに吉藤村にあった専光寺は,本願寺派に属していた。「大谷一流諸家分脈系図」によれば,専光寺は「石川郡大糠(おおぬか)郷」(現在の金沢市大額(おおぬか)町付近)に,正和2年に創建されたとし,「吉藤専光寺史」は,文明年間に大糠から吉藤に移ったと伝える(続真宗大系)。専光寺と並んで,いま1つほかから吉藤に移転して来たと伝える真宗寺院に,真宗本願寺派善炤(照)坊がある。もと河北(かほく)郡八幡(やわた)村にあり,専光寺とともに移り,明応7年4月28日の「加州石河郡大野庄吉藤専光寺門徒願主釈証賢」の裏書をもつ「親鸞・蓮如連座画像」を伝蔵している(銘文集成)。両寺ともに,吉藤村に近い宮腰(みやのこし)湊と深い関係をもつ石川郡野市(ののいち)や河北二日市などの交通路の拠点近辺に旧寺地を有しており,内陸から流通路に沿って吉藤村に移転し,日本海や内陸の流通路を掌握して,北加賀の一向一揆を指導する大坊主に成長した(大徳郷土史)。その後,新しい一揆の組織化を目指した享禄の錯乱で退転し,「加州慶明前吉藤下」「直参衆二口教西是ハ専光寺ヘ直之坊主」「直参前善照坊下」と見えるように,その門徒は本願寺直参門徒に組み込まれた(天文日記)。前田利家加賀入部の後は,天正11年8月17日の前田利家知行所付に「九拾町九段小四拾五歩 専光寺村」とあるように(拾遺温故雑帖),寺名が地名に転じた。現在の金沢市専光寺町付近に比定される。なお天正年間には金沢へ移ったとされており(吉藤専光寺史),善炤坊も寛永元年には金沢に転じた(寺社由来)。