2020年7月25日土曜日

土器「𤭯(はそう)」

はそう
花園八幡遺跡から発掘された古墳時代の土器です。この土器の名前は「はそう」といいます。漢字では𤭯。名前がわかっているのに用途がはっきりしていないようです。液を入れる容器のように見えます。胴体の真ん中に穴が開いていて竹筒を差し込んで液を注いだという説があります。実用品ではなく祭祀に使われたという説もあります。「はそう」は全国の古墳時代の遺跡から出土します。だから何か意味のあるものだったのでしょう。この地にも共通の文化が伝わっていたんですね。花園八幡遺跡では祭祀に使われたと思われる剣型や舟型の木製品と同じ場所で見つかりました。この遺跡からは「はそう」祭器説になりますね。この写真は金沢市埋蔵文化財センターで、花園八幡遺跡についてお話を伺った際に撮りました。

2020年7月15日水曜日

はなぞのやわた2


昔の花園八幡想像図

弥生時代から人が住んでいました

現在花園八幡町3班から6班となっている団地を造成したとき、その一部を金沢市が発掘調査しました。その結果、今の地面より1.5mくらい下に弥生時代(1800年くらい前)から鎌倉時代にかけて、人が生活した跡が見つかりました。河北潟は今よりずっと近くまで入っていて、米だけでなく湖の産物も山の産物も得られ、住みよいところだったのでしょう。 

住居があった

一辺3m位の四角形の四隅に穴があり、その底に木が一部残っていました。これは建物の柱の跡で住居があったと思われます。土器も出てきました。

出土した土器の一部

 鍛冶屋があった

鉄くずがたくさん出てきました。また、高い温度で鉄を柔らかくするために炭火に空気を送り込む「ふいご」の一部も出ました。奈良時代には鍛冶屋(かじや)があったと思われます。米作りのための鍬(くわ)や鎌(かま)など鉄の刃物を作ったのでしょう。

 お祭りの跡があった

鍬などの農具や刀、舟などの形を木で作ったものや壊れていない土器が一か所にまとまってたくさん埋められていました。お祭りをして健康や豊作を祈ったのかもしれません。今と変わりませんね。

資料 金沢市文化財紀要241 石川県金沢市花園八幡遺跡 平成192007)年


2020年7月10日金曜日

はなぞのやわた 1

「はなぞのやわた」のページでは特に花園八幡町内の皆さんに向けてこの町の地名や旧跡などを紹介していきます。その第1回目です。

なぜ花園八幡町という町名なのか

私たちの町名は花園八幡町です。4文字もある長い名前です。手紙や書類に住所を書くときに面倒だなと思いませんか。今町の今なんて1文字4画です。花園八幡の画数を数えてみてください。どうしてこんな町名になったかご存知ですか。

千年ほど昔、多分平安時代にこの辺りには京都の男山八幡宮(石清水八幡宮)の荘園があったと言われています。だから荘園の中にあった神社は八幡宮です。今、波自加彌神社のある山は八幡山といいますが、ここにその八幡宮があり、その宮下の集落は八幡村だったのです。

 なぜ八幡宮ではなく波自加彌神社なのか

昔々波自加彌神社は今町から登る山の上の四坊高坂にありました。ところが源平合戦で社殿が焼けてしまい、やむなく八幡の八幡宮に間借りさせてもらうことになったのです。それ以後八幡山に八幡宮と波自加彌神社が同居しているのです。秋祭りには1班の伊東家の庭に祭旗を立てますが、「正八幡宮祭礼 文久二年(1862)八幡村若連中」と書いてあります。江戸時代までは八幡社でもあったのです。波自加彌神社の名前が平安時代の神社名簿に出ているので、この方が古いようだから波自加彌神社の方を名のることになったようです。

 花園八幡町になった

江戸時代の村は小さく、ここは八幡村だったのですが、明治になって新しい町村制ができ、今町や二日市、岸川、利屋町などとまとめて花園村になりました。地名は河北郡花園村字八幡でした。

昭和291954)年町村合併で河北郡森本町字八幡になりました。

昭和371962)年森本町が金沢市に編入合併となった際、馬場校下に八幡町があったため、花園八幡町になりました。

 「やわた」か「やはた」か

八幡のついた市町村は全国にあります。読み方はやはた、やわた、はちまんといろいろです。元々の意味は八つの旗(=幡)ですからやはたが正式のようですが、この辺りでは昔からやわたと言っていました。だからこの文のタイトルもはなぞのやわたとしました。


2020年7月7日火曜日

はなぞのやわた絵図

花園八幡町の絵図です。この町の山や谷の名前、旧跡などをこの絵図に沿って紹介していこうと思っています。