2019年6月8日土曜日

嘉南大圳工事模様壁掛け左上部分 Caption on the Upper left part of the Tapestry 1


八田與一が嘉南大圳の完成記念に贈った20枚の壁掛けの詳細を4部分に分けて解説します。壁掛け全体は に示しました。この壁掛けは2012年に伊東哲の姪の家で発見しました。写真を嘉南農田水利会に送ったところ水利会からの依頼で、台南市の顔弘澈さんが詳細に解析してくれました。このページでは左上部分について紹介します。
    壁掛けの4隅の図の1です。それぞれ稲の苗から成長を表わしますが、これは実った稲を刈り取った束を示します。
    壁掛け全体を取り囲んでいるこの花はアサガオのようです。烏山頭ダムの周辺にはたくさん見られます。
    曾文渓渡槽橋 
    曾文渓からの取水口 烏山頭ダムは官田渓の谷に作られたが、官田渓だけでは水の供給量が不足だった。このため曾文嶺にトンネルを掘り曾文渓の水を供給した。
    取水トンネル出口
    蒸気機関車がダンプ式貨車で土砂を運び堰堤に排出する。そこへポンプで水を噴射すると細かな砂や粘土は堰堤の中央部へ流れていき、大きな石や岩はそのまま残る。中央部を挟んで両側で同様に土砂を積み上げて徐々に堰堤を高くしていく。堰堤の中央部へ流れてきた粘土は沈殿し、水は下部へ浸透して暗渠から放出される。このようにして堰堤の外側は大きな石や岩、中央部は細かな粘土層が積みあがっていく。これが半水式土堰堤建設である。
    水噴射
    掘削機
    56トン蒸気機関車、ドイツから輸入
    木綿樹 4月頃赤い花が咲く。街路樹に多く用いられる。
    ムクロジ
    マンゴー
    ライチ

    幹線水路

The upper left quarter of the tapestry “Construction of Chianan Large Scale Irrigation Facilities” is shown. Whole tapestry is displayed in page 和蝋描壁掛け嘉南大圳工事模様 . Objects illustrated in the tapestry were analyzed by Mr. John Yen of GPS Designer International Corp in Tainan, Taiwan.
    Rice plants harvested.  
    Morning glory.
    Aqueduct over Zengwun River
    Water intake facility from Zengwun River. Wusanto Dam is constructed at the Guantian River valley. As the water supply from Guantian River is not sufficient, water of Zengwun River brought through this water tunnel.
    Outlet of water tunnel.
    Steam locomotives with freight cars come to the dam construction site and dump earth. Then water is sprayed to the earth. Fine particles such as cray or sand move to the center part and precipitate while big rocks do not move. Water penetrate into the earth and is discharged by culverts. Impermeable center core of the dam is prepared in this way. 
    Water spray.
    Excavator.
    A 56 ton steam locomotive imported from Germany.
    Trees with red flowers (Bombax ceiba).
    Soapberry tree.
    Mangifera indica
    Litchi
    Major water channel  

2019年6月5日水曜日

八田與一青年立山に登る2 Young Yoichi climbed Mt. Tateyama


いよいよ立山登山です。現在では標高2450mの室堂平までバスで行きますから、雄山までだったらあと500m登ればいいだけです。明治のこのころは富山駅から全行程徒歩です。富山郊外で昼食を摂った後芦峅(あしくら)まで6里(24km)を歩きます。

七月二十五日
晴れ。この日は悶着が絶え間なかった。我々は旅行準備を整え出発しようとしたが、八田君は朝寝坊をして、しかも登山は止めたなどと言う。しかし木谷君が既に津幡駅で待ち合わせしていることで一件落着し、八田君は一足先に行って富山で待つことにした。ところが我々は汽車に乗り遅れ、十一時の汽車に乗って富山着は一時五十五分であった。富山着後四名同道し、徒歩で芦峅(あしくら)へ向かった。富山郊外で昼食をとったのは三時ころになっていた。これから芦峅まで六里といわれる。宿所は佐伯家であった。この日は祭礼の
芦峅芦蔵)にある雄山神社
日で、舞踊も行われていた。祭りと舞踊を見学して、十時半に就寝した。本日は近来稀に見るほど汗をかいた日であった。夜、仲語(ちゅうご、立山の神と人との仲立ちをする人の意味で、ガイド兼ポーター)を雇った。仲語は白米、草鞋などを買って翌日の準備をした。

2019年6月1日土曜日

八田與一青年立山に登る 1 Young Yoichi climbed Mt. Tateyama


近年、多くの人たちの努力により、八田與一が台湾で大きな業績を残したことが再発見されてきました。金沢市ではふるさと偉人館に郷土出身の偉人の一人として資料を公開しています。しかし八田與一の若いころのことについてはあまり資料が残っていません。筆者の祖父平盛の日記には親戚でありまた親しい友人である八田與一がしばしば登場します。若いころの八田與一の素顔が少しだけ見えるような気がします。

日記によれば1906年(明治39年)7月に八田與一は平盛ら友人三人と富山県の立山に登山しています。このころの加賀越中の男子にとって、立山登山は一人前の男になるため一度は登っておくことが義務のような面がありました。一行は與一(20歳)第四高等学校学生)、伊東平盛(19歳、前年に一中を卒業して農業に専念)、平盛の弟哲(後の洋画家、15歳、金沢一中生)、及び木谷弥一(18歳、一中生、平盛の母方の従兄弟)の計4人でした。
日記の文章は読みにくいので一部要約しながら現代語にしてみました。

7月11日
 八田與一君が来た。立山登山についていろいろ相談した。

7月14日
八田與一君を訪ねた。快談の後太陽(明治28年発刊の総合雑誌)の一巻全部とシルレル物語(シルレルはドイツの詩人シラー)、および滑稽本二冊を借りて帰る。

7月24日         
八田君と共に明日立山登山すると約束を交わし、木谷君を誘った。

Heimori Ito (author's grandfather) was a friend and a close relative of Yoichi Hatta. Yoichi sometimes appears in Heimori's diaries. According to Heimori's diary, they climbed Mt.Tateyama in July 1906. The members were Yoichi, Heimori, Satoshi, and Yaichi Kidani who was also their close relative.