2023年3月23日木曜日

波自加彌神社と善照坊(2)

 

古代の河北潟



 浄経坊(後の善照坊)は波自加彌神社の真言宗の社僧として務めていたが、32代円乗のとき蓮如上人の浄土真宗に帰依、吉藤村に善照坊を開基したとされている。善照坊には八幡、百坂、鷺ノ森に道場があったという。

 蓮如上人北國布教まで八幡にいたはずの円乗がかなり遠く離れた吉藤村に寺を構えることができたのは何故か、そして八幡の外に百坂、鷺ノ森に道場を設けることができたのは何故か。

 古代の河北潟図は平川南著 日本の原像(2008年小学館)より転載した。

現在の金石本町あたりに古代の港があり、渤海使を迎える館や官庁があった。弘仁14(823)年加賀国が越前国から分離されたとき、国府は当初このあたりにあったという説もある。図の左下のあたりは宮腰と呼ばれた古代から中世にかけての港があり、平安時代には北加賀で大きな勢力を持っていた「道の君」の居館があった所と推定されている。

 吉藤村は現在の専光寺町で、浄土真宗の極めて有力な寺院専光寺(吉藤専光寺)があった。専光寺は現在金沢市本町にあるが、おそらく前田藩からの指示で移動したと思われる。中世には大型船もあって、加賀の米は宮腰から敦賀まで船便、敦賀から陸を通ってまた琵琶湖から船で都まで運ばれた。宮腰のすぐ北には大野の港があり、河北潟を通して北加賀や越中と物資が運ばれた。港は輸送の拠点であり、支配者にとっては重要な収入源でもあった。専光寺周辺には富や人の集積があったものと思われる。鷺森は吉藤村に隣接しており、このような物流に関わっていた可能性がある。

 百坂の西には現在も蓮根田が広がり、北は吉原(もちろん葦の原)であって、湿地帯の山側であった。河北潟の水運は百坂まであったかもしれない。吉原から越中へ物資を運ぶ小原越えの起点でもあった。八幡は同じく越中への脇道である田近越えの中間点四坊高坂への近道があり、すぐ隣の二日市まで河北潟への水路があった。

 百坂道場主と鷺森道場主は共に五十嵐家で、両五十嵐家は何らかの関係があったと思われる。善照坊と五十嵐家は蓮如以前から有力な物流勢力を築いていたのではなかろうか。善照坊が吉藤村に開基できたのは五十嵐家の力かもしれない。

 善照坊は1488年の一向一揆の後の後1531年の大小一揆に小一揆側で参戦して敗れ、多くの門徒を失った。ということはそれまでは多くの門徒のいる有力な勢力だったことを示す。さらに1582年尾山御坊の落城の際、一揆方の代表の一人として名前が出てくる。善照坊は一人の僧侶というよりはかなり宗教的権威も兼ねる有力な豪族であったのではなかろうか。



2023年3月19日日曜日

波自加彌神社の創建(3)

 

黄金清水 四坊高坂の波自加彌神社
創建の地とされる

波自加彌神社はもともと四坊高坂にあったが、源平の戦の際に焼け出され、現在の花園八幡後にあった正八幡宮に庇を借りた。明治の始めのころに四坊高坂に田近村役場が置かれた。田近村は後に他の村と合わせて花園村になるが、このあたりの中心的な集落であった。縄文海進のころは加賀朝日やその周辺の山地のところどころに縄文の遺跡が見つかっているので、現在「やま」と呼ばれる地域に多くの人が住んでいたようだ。縄文時代の信仰の事はよく分かってはいないが、自然の猛威や自然の恵みの中で暮らしていくなかで、人知を超えたものに祈っていたに違いない。日本の神道は土着の宗教が仏教の影響を強く受けて出来上がってきたらしい。波自加彌神社の成立については記録がないが、多分縄文のころから「やま」の人達の中心として長く受け継がれてきたと思われる。山は木の実、畑の産物、獣などの食料や燃料、日常の種々の素材などの生産が多く、人々の生活を支えたので、多くの人が住んでいた。平安時代に書かれた延喜式に波自加彌神社が記載されているのはこのような経緯であった。

2023年3月17日金曜日

波自加彌神社の創建その2

 

「天皇」と呼ばれる地は神社の山の頂上で、
この写真の中央奥のあたりである

波自加彌神社誌の中の神社創建に関わる物語の続きの部分です。波自加彌神社が何故八幡村にあるのかを説明していますが、少し苦しい論法です。

卜部兼道郷の神運記にも加賀郡田近郷波自加彌の社は元正天皇の御代に鎮座し竹内宿祢を祀るとある。当社は往古より神明(天照大神)、諏訪明神、春日明神などを祀り、少彦名には木の薬師如来までもあった。特に毎月二日には近郷から諏訪社に参詣する人多く、市が立ったが、この(応神天皇の)御神影があってからは国民の守護神であるから、参拝する人が日夜に盛んになり、前からの神々を末社として波自加彌神社を産土神として尊敬するに至った。坊守の住むところも次第に家数も増え、その村を八幡村と称するので、神社も八幡村の神社と称するようになった。昔は神仏兼敬であったが、後に悉く焼失した。その後寛文101670)年11月、卜部兼道郷の門人となった出雲頭藤原正屋の代より専ら神事を行うこととなった。その後元禄(1703)年日向頭正治から当社の由来を卜部兼敬郷へ申請し、縁起及び奥書を申し受け、神前に収めた。

以上を天明61786)年8月和泉頭藤原正次へ申し渡したところである。いろいろなことを言い出す人もいるので、後々のためこれを神前に収め置くものである。

天保31832)年6月  隠者 北山

2023年3月13日月曜日

善照坊は波自加彌神社の社僧だった

善照坊とその三道場

善照坊は浄土真宗本願寺派に属する寺院で、現在は金沢市長土塀にあります。花園八幡には善照坊の門徒が6軒あります。その謂れは、下記の善照坊由来記抜粋 で推定できます。

抑もそも当寺開基は、聖武天皇天平年中のころ、泰澄大師越前越路山より出でたまい、諸寺諸山を開闢せし時、常随の高弟にして禅覚法卯真言法脉(みゃく)を伝え、その後河北郡八幡村波自加彌神社(養老2年、718年鎮座)の社僧として代々致仕す。

31代浄経坊円乗師の代、文明71475)年本願寺第八代蓮如上人、北國巡化の折、改宗帰依し、翌文明8328日、方便法身尊形の一軸を賜り、加州石川郡大野庄吉藤村に一寺を建立、寺号を善照坊と改む。

●長享21488)年加賀一向一揆に参加、富樫政親を敗死せしむ。

●明応71498)年蓮如上人御年84歳、御病気御見舞いに参上、上人御形見として二尊連座の御影を授かる。

当寺三道場あり。

●八幡道場  伊東平右衛門

●百坂道場  五十嵐教西

鷺森道場   五十嵐東守了善

お礼上洛の折、三道場主に、余絹も三幅の六字の名号を賜る。

●明応91500)年円乗師62歳にて示寂す。

●天文61537)年加賀国の大小一揆の乱に小一揆側に参加敗れ、門徒は本願寺の直参として、とりあげらる。善照坊の名、この時はじめて史書(證如上人、天文日記)に現る。

天文31575)年上杉謙信、能登侵入の折、亀田隼人、洲崎兵庫等と迎え撃ち敗走さす。

●天正81580)一向一揆が加賀の国を百年余り支配せし時、尾山御坊内に坊官として参与す。後、柴田勝家、佐久間盛政に攻撃を受け落城の折、降伏の代表として、本誓寺、広済寺、恵林坊と共に名を連ね、その後輪島に潜居す。

●寛永元(1624)年戦乱収まり、前田氏の治世となり、金沢市高儀町無番地(現在地)へ移る。

●寛政91797)年故あって東派より西派に転派、門徒の大部分が離散、大部分は東別院の預かりとなり現在に至る。



 

2023年3月11日土曜日

波自加彌神社の創建

田近彰男著 波自加彌神社誌(昭和40,1965年刊)には次のような記述があります。原文は漢字交じりカタカナ古文で読みにくいので、わかる範囲で現代文に訳してあります。

「護国山縁起書」として次の記載がある。

そもそも正八幡宮波自加彌神社と申し奉る宮の謂れは下記のごとくである。

44代元正天皇(715724)の御代、養老元(717)年315日夕方、この村の東方の空中に大きな火球が輝き人々が驚き恐れたが、しばらくして山頂に落ちて消失した。その後度々その周辺の波自加彌(山椒?)から黒雲が立ち上り、また風雨が吹き荒れることがあったので、人々はあの光の玉の所為ではないかと恐れて近づく者はいなかった。泰澄大師がこのことを伝え聞き、翌年413日にここへ来られたところ、丁度黒雲が立ち上り、急に風雨が強まった。大師がそこで「どのような神様ですか、お姿を現し下さい」と熱心に祈られたところ、風雨が次第に収まり、五色の雲が上り、その内側に金色の身に甲冑を帯び手には弓矢を携えた一人の老人が現れた。そして厳然と「私は竹内宿祢の神霊である。昨年光を放って現れたのは16代誉田天皇(応神天皇)が人々を憐み、ここへ垂迹(現れ)されたので、私もまたお守りしているのだ。しかし我らは西方に本国がある。」と宣べて弓矢を残して消えた。そこで大師はこの「お告げ」を伝え、仮に神社を建て弓矢を奉納しまた仏像を彫刻して納め深く尊崇すべきと述べた。人々は安心し喜んで、この神社を波自加彌神社とした。その後、大師が亡くなったとき、天皇はこのことを聞き、堂塔および坊舎を作ることを命じ、神田を寄付し、山を護国山、山頂を天皇、前に流れる川を手洗川と名づけた。延喜式に出ているのはこの神社である。