2019年3月30日土曜日

伊東哲(さとし)の物語 2 NHKエデュケーショナルがやって来た

自画像 東京美術学校卒業制作

沈思の歌聖 絵葉書
2007年は東京芸術大学創立120周年に当たり、卒業生の自画像展が開催された。NHKエデュケーショナルは芸大卒業生自画像に焦点を当てた特集番組を企画した。先ず企画チームスタッフが何の予備知識もなく自画像を見て、スタッフの目や心に訴えかけた自画像を選び、それを描いた作家の足跡を辿るという斬新な企画だった。その中の一つが無名の画家、伊東哲の自画像だったというのだ。
大正5年に描かれた彼の自画像は、ダークブラウンの毛皮の襟のついたマントを着、見るものに挑みかかるような鋭い眼光を向けている。優しさも穏やかさのかけらもない怖い顔である。そのポートレートを追って、NHKが哲の生家である我が家にも取材に来たのだ。NHKのロゴなどどこにも見当たらないバスに乗って5,6人のスタッフでやって来た。
彼らは千葉県に住む画家の令息や、石川県立美術館などでの取材を終えており、哲が描いた第八回帝展入選作“沈思の歌星”事件のことをすでに把握していた。我が家の伊東哲ミニギャラリーや、これまでの入選作が我が家に疎開して置いてあった場所などを取材した。晩年カレンダーの裏などに描いた細胞画や哲が台湾で描いた八田与一像、烏山頭ダム工事画の写真も収めた。
スキャンダラスな美人、柳原白蓮を描いたことで、哲は痛烈なバッシングを浴び画壇を去ったという話は、彼らNHKスタッフの最も興味とするところだった。何と言ってもストーリー性があるのだから。後にスタッフの一人河邑厚徳氏は著書『藝大生の自画像』(NHK出版)で「調べが進むにつれ、予想外のドラマが隠されていることが明らかになってきました。伊東は運命に翻弄され挫折した人物でした」と、ことの経緯を詳しく述べている。
問題の“沈思の歌星“は購入され、東京丸ビルに飾られていたが、戦災で焼失した。私の義父は制作当時、哲叔父宅に下宿していて絵の進み具合をその目で見た一人だった。“画面が三段になった変わった絵で、その真ん中の林で白蓮が、歌を作っている絵やった。わしが見た頃は最後の仕上げ段階やった”と、言っていた。
NHKの調査で、その絵のカラー絵葉書(当時展覧会で売られていたもの)が、白蓮の長女蕗冬さん宅に残されていることが分かった。(実は哲の後妻宅にも一枚残されていて、私と夫はすでに見ていた)。初めてその絵を見た時、私はボッチチェルリの“春”を連想した。背景に樹木があり、足元に草花が散らばり、詩作する白蓮がスッと立っている。義父が三段といっていたけれど、実は画面が縦に三分割されていたのだ。分かれ目は太い柱で、柱と柱の間の上部はアーチになっている。いや、額がそういう特別しつらえだったかもしれない。確かに変わっている。しかも白蓮はオレンジ色の着物に黄色の打掛を羽織って、かなり目立つ。実はこの打掛もスキャンダラスなものであることを私たちは初めて知った。
白蓮長女蕗冬さん宅でのNHK調査によって、その打掛は白蓮が彼女の伯母に当たる二位の局(明治天皇の側室で、大正天皇生母)から下賜されたものであったのだ。筑紫炭鉱王の妻であった白蓮が東京帝大生と駆け落ちし、夫への離縁状を新聞紙上に発表するというスキャンダルからすでに6年が経っていた。彼女は詩作だけではなく、徐々に女性解放運動に向いてゆく。白蓮はわざと天皇家由来の打掛を着て、女性を縛る社会への不屈の精神を現す自分を描いて欲しかったのだ。哲はそのことを承諾して描いたに違いない。ボッチチェルリの“春”にも右端に暗雲を暗示する天使が描かれている。哲も“春”が頭にあったのではないかと私は思う。暗示は大胆にも柱とアーチということだろう。ずばり女性を縛る社会の枠ということではなかったか。
NHKはその経緯を踏まえ「その意味では、画家として伊東は、無防備でイノセントでした」とし、数奇な運命に翻弄された画家ととらえた。それにしてはNHKスタッフの目に留まったほどの自画像の不敵さは何なのだという疑問が残る。はたして“無防備でイノセント”だったのだろうか。私は家に残されている、伊東哲の兄平盛の当時の日記を調べたり、帝展初入選時の哲の新聞コメントを探したりして、私なりに調べてみた。
大正5年10月19日の北國新聞に“非凡の画才”と題して、“伊東哲文展西洋画初入選”の記事がある。その中で彼の抱負や理想として兄平盛氏に宛てた哲の書信を紹介している。 「私が文展に入選するのは当然であります。もし落選したとしてもそれは私の技量と思想とが審査官諸士と全く違った方向に道を取ったという事実に帰着します」と書いている。不遜と言っていいほどの自信である。
問題の第8回帝展作品“沈思の歌星”当時の平盛日記(付記1)によれば、哲は第8回帝展では明らかに特選を狙っていたし、かなり自信もあったことがうかがえる。哲は5人兄弟の上から2番目。この兄弟は、学生の頃兄弟誌“山百合”を作っている。そこには哲は世間おもねることのない確立された自己を持つ人であったことが明らかに読み取れる。大正5年発行の第3号で、哲は“真の自己”(付記2)と題してこう書いている「吾々が真に従わなければならぬものは自己内心の真実においてである」と。
社会に迎合することなく,自己に忠実であることが大切と哲は主張している。“自分は内心そうおもうけど、世の中そうはいかないから”と、大方の人は自分擁護のため無意識にもダブルスンダートを持つ。が、伊東哲はそのことを最も嫌っている。自分に忠実であろうとする人間であることがよく分かる。
 柳原白蓮も全くそのような人であった。哲は白蓮の生き方やそれを縛るものに対する彼女の挑戦の思いもよく理解し共感したであろう。“沈思の歌星”は白蓮と哲共同の社会への挑戦状だったのだ。バッシングはむしろ当然の成り行きだったのだ。画壇からは“売名行為”ととられ、無能の画家からは妬みを受け、“お前はジャガイモのような田舎夫婦や農夫を描いておればいいのだ”と書かれ、白蓮は“変態性欲の狂女”と再び揶揄された。
 伊東哲はNHKが言うような無防備でイノセントでは決してなかったのだ。白蓮と共に社会や画壇と対峙したのだ。そこに彼の画家としての匠気がなかったわけではない。特選を狙うほどの気合のいれようだったということだろう。これでようやく見る者を射るような鋭い眼光の自画像と、“沈思の歌星”事件との整合性を見ることが出来た。
 取材を終えたNHKエデュケーショナルは、そのうちNHKスペシャルでも放送されるでしょうと言い置いて帰った。ところが数か月後、番組は芸大との共同制作となったため、伊東哲に関しては申し訳ないけど、一部だけの紹介になってしまうとの連絡を得た。NHKエデュケーショナルが最も興味を示したあの黄色の打掛が、その原因ではなかったのだろうかと私は推測する。天皇家に触れることは女性週刊誌ならいざしらず、NHK上部にとっては今なおとてもデリケートで、できるなら地雷を避けてソフトペタルでゆきたい問題なのだろう。NHKエデュケーショナルの調査で“沈思の歌星”に隠された意外な事実が浮かび上がった。しかしNHKの社会的縛りにより、それは消された。この皮肉な対比劇にNHKのいかにも日本的なダブルスタンダードを見た思いである。
(2013年2月satoyamachika記)
 付記1 兄平盛日記
昭和2年10月16日。明日は帝展の審査日なりと よき便あれかし。
昭和2年10月17日。東京より通信あり 特選候補なり乍ら至難という 魏を得て蜀を望む心地す。
昭和2年10月20日。帝展特選ははづれたるか如し 残念なれども欲が深うすぎるかも知れぬ。
昭和2年11月9日。國府氏 左の沈思の歌星に題する詩を送る。(國府氏とは國府犀東のこと、彼は隣村、二日市出身の宮廷漢詩人であり、平盛と親交があった。平盛は大変篤実な人で、長兄として終生弟たちの面倒をみた。帝展特選を逃し、落胆する弟を気遣い親交のあった國府犀東に頼んで励ましてもらっている。沈思の歌星に関する批評が気になり金沢の本屋で美術関連の雑誌を求めている。日記左に書かれた漢詩は省略する。内容は沈思の歌聖がどういった絵であるかを書き、最後に後の世に理解者が出るのを待て、というような消沈の哲を励ます漢詩である)
付記2 兄弟誌『山百合』第3号の中から
私に於いては私はいつでも赤裸の私自身を語ることなしに一語も成すことが出来ないのである。私の書くことは間違っているかもしれない私にとって私が心から信じたことのみを書く(中略) 悲しむべき両者の(自分と他の兄弟のこと)この相違は永久に調和し融合する時期がこないであろう。私はこの私の見方を正統とし益々斯の如き素質の生長を望んでいるのに反し諸君は非社交的不合理な言葉として又考えとして私とは全然反対の立場に居られるのである。『多数が悪いと見たならばその行為を治すのが社会である』と或る人が言うだろう、然しこれは最もくだらぬ常識的解釈であって一般階級の上に出ることが出来ぬ。これは進歩なき社会の状態である。社会は絶えざる進歩の道程である(中略)社会は同一の状態持続でないことだけは事実である。(中略)吾々が真に従はなければならぬものは自己内心の真実においてである。これから発したものが最も尊敬すべきものである、芸術に於いて最も然りである」

ある洋画家との出会い 1 kantoramomエッセイ

私の家にはある洋画家の絵があちこちに飾ってあります。居間の一角には、ゆるやかな起伏をみせて広がる春の野で一頭の馬がのんびり草をはんでいる絵が掛かっています。ソファの後ろの壁には、これも馬の絵ですが、同じ構図の絵を対で飾ってあります。一方は傾きはじめた大きな太陽の下、急いで荷を運ぶ荷馬車の絵です。西日に人も馬もまぶしく揺れてみえます。もう一方は、日が落ちてしまった後、仕事を終えて家路を急ぐ人と馬のシルエットが茜の残照にくっきり浮かびあっています。同じ風景を時系列で描いているのです。
 玄関ホールの絵は季節ごとに変わります。お正月は、松並みの向こうにほんの小さく描かれた鳥居の絵。春は満開の桜並木の絵。手前の池にも映えていっそう華やかです。茶屋の暖簾の白と毛氈の赤が愛らしい。夏は海辺に浮かぶ一艘の船。秋には、収穫を終え重い荷車を引いて月夜を急ぐ農夫と農耕牛の絵です。
 いずれの絵も対象を大きくディフォルメし印象を力強く、さらっと描いています。小さめの画用紙に描かれた水彩画ですが、そこに描かれた自然はゆったりと広く、時間はのんびり流れています。どれも私の大好きな絵です。一日に何度も見やり、忙しい私の心もふと立ち止まりゆったりするのです。
 画家の名は伊東哲。明治二十四年石川県河北郡花園村生まれ。石川県で初めて文展(日展の前身)洋画部門で入選を果たした石川洋画の先駆的画家です。初入選は東京美術学校(現、東京芸大)在学中のことでした。その後も度々入選を重ね将来を嘱望されていたそうです。が、突如彼は中央画壇を去るのです。第八回帝展入選作は「沈思の歌聖」と題する絵で、森の中で詩作にふける柳原白蓮を描いた絵だったそうです。当時マスコミを賑わせるような“不道徳な女”をモデルにしたことで、画壇の不興を買ったのです。売名行為などという中傷を浴びたのです。画壇を去った彼は、以後画壇に属することなく、制作の場を台湾、北京に移し、敗戦後は千葉県流山中学校の美術教師となり、死ぬまで絵を描き続けました。東京大空襲で何百枚という油絵を焼失し、また夫人や長男に先立たれ、不遇な生涯でした。
 伊東哲は夫の祖父の弟です。伊東の家は辿れば平安時代までさかのぼることができるらしい。その昔、京都男山八幡宮の荘園管理のためこの地に赴任したのが始まりだそうで、以来、連綿とここ金沢市の北端の山あいに暮らし続けている。蔵や屋根裏はあたかもタイムカプセルのようです。昔の人が袖を通したであろうかび臭い古い綿入れ着物、明治の人が書き残した手紙の束、ガラス乾板の写真ネガ。ここでは時間が止まっている。
 そんな中にこれらの絵もあったのです。箪笥の裏に落ちていたり、その辺に埃をかぶって無造作に置かれていたりしていました。富士市の我が家に借りてきて楽しんでいるうちに、魅了されていったのです。このような自然や人間に対する深くて優しい洞察力と力強い表現力を持つ画家のことをもっと知りたいと思いました。舅に昔の話を聞いたり、文展、帝展入選画が寄贈されているという石川県立美術館を訪ねたりして、前述のようなことを知ったのです。
 毎日これらの絵を見ているうちに、彼の画業を何とか子供たちや、できるならその後の世代にも残し伝えたいと思うようになりました。親戚などに残されている絵を訪ね歩き、写真に収めてゆきました。ようやく手製のささやかな画集ができたのは平成七年春のことでした。彼の絵に出会ってから七、八年も経っていました。
 県立美術館から“伊東哲を知る貴重な資料”と、思いがけない評価を受けました。そして、とうとう平成九年『伊東哲と石川洋画の先駆者たち展』という晴れがましい展覧会が開催されることになったのです(於石川県立美術館)。埋もれた画家のわずかに残る作品が、日の目を見ることになったのです。代表作『高原』の女性たちがまぶしそうに輝いて見えました。我が家の水彩画もその末席を飾りました。
 人生には時に思いがけない出会いがあるものですね。もう亡くなった画家とその絵にこうして出会い、私の心が揺さぶられている。一日の仕事を終えて、夕焼け空を行く農夫と農耕馬。労働の後の夕日はやさしく柔らかい。「明日はどんな日になるか誰にも分からない。けれど、明日も働こう。明日の夕暮れも穏やかなれ」とその絵は語っているようです。世に媚びず、描くことだけに身をゆだねた彼の一生が語りかけているように思われます。
(1995年 kantoramom記) 


2019年3月29日金曜日

農夫(1912年)、老人(1916年)

農夫(1912年) 石川県立美術館蔵
老女と同じ時期の作品で、家族や近所の人をモデルに描いた習作の一枚と思われます。なたを持った農夫が地面に座っています。日焼けしていて毎日働いている様子ですが鋭い目をしています。モデルは伊東忠太郎と言われています。
老人(1916年)

下の絵も近所の農夫をモデルに描いたものと思われます。手は節くれだっていて、いかにも働き者の様子です。この時期の哲は家族や近所の人をモデルに農家や漁村の働く人をしっかり描き込んでいます。人物の内面をも捉えるような力量を持っているように思われます。

2019年3月28日木曜日

老女 つね像

老女 モデルは哲の祖母つね 石川県立美術館蔵
老女と題されたこの絵のモデルはこの絵を描いた伊東哲の祖母つねです。13代(伊東)平右衛門夫妻には子供がいなかったので、妻の寿々は自分の実家の今町村(八田)四郎兵衛から寿々の姪に当たる11歳のつねを養女にもらいました。幕末安政元年、1854年のことです。つねが15才の時、隣の二日市村亀田治兵衛から平右衛門の甥にあたる外次郎を婿に迎えました。外次郎は後に14代伊東平右衛門を名のります。この二人はしっかり者でよく働いたようで家産も増え、伊東家がもっとも繁栄したころです。哲の兄平盛は明治39年正月の日記に「鬼婆も屠蘇三杯機嫌よし」と俳句を書いていて、気が強かったことをうかがわせます。
14代平右衛門とつね 1913年

ねは八田與一の叔母にあたり、與一と平盛、哲兄弟との深い交流の基礎となりました。14代平右衛門は大正2年1913年に74歳で、つねは大正11年1922年に77歳で没しました。

2019年3月26日火曜日

第10回文展(1916年)入選作 夫婦

夫婦 油彩 大正5年(1916
90.5
117.0 石川県立美術館蔵
10回文展入選(初入選)


この絵は伊東哲が初めて文展に入選した作品「夫婦」です。この時哲はまだ東京美術学校在学中で、夏季休暇を利用して富山県氷見に滞在し氷見浦の漁師夫婦を描いたものです。田舎の働き者で実直そうな夫婦の実像が伝わるようです。

八幡村の秋祭り

正八幡宮祭禮 祭旗

土蔵の長持ちの中から古めかしい祭旗が出てきた。巾は普通の反物の巾(36センチ余り)で、長さは4mとまるで帯のように長い。風雨、日光に晒され裾の方はボロボロで、白地はすっかり褪せて灰色である。「正八幡宮祭禮 文久二壬戌(みずのえいぬ)暦后八月吉祥 八幡邑(むら)若連中」と墨書きされている。文久二年は1862年。150年前の祭旗である。恐らくその時の秋祭りがまだ踏襲されていたと思われる昭和10年代の秋祭りの写真も出てきた。村の鎮守の神様のめでたい祭り日の様子を、古希を迎えた夫の記憶も加えてここに書き留めたい。 

1930年頃の秋祭り風景
 この村の神社の名は、波自加彌(はじかみ)神社(この神社は八幡村と隣の大きな二日市村で持っている)。全国で唯一、生姜の神様というので最近、急に有名になってきた。この辺りは1500年代、蓮如上人の北国御化導で人々は一斉に浄土真宗の門徒になり、以来熱心な蓮如さん信奉の村である。家々の仏壇は立派だけど、神棚は隠すかのようにごくごく隅に置かれている。我が家では二階の一室の戸袋に当たる場所に入れ込んであり、普段は目にしない。 
獅子舞


 そういう村であり、家であっても秋祭りとなると普段と違った。二,三日前から家の外掃除が始まる。草取りをし、掃き清める。祭りは二日がかりの盛大なものでる。陰暦八月は今の九月、稲刈り直後の秋祭りである。新しい稲わらで縄をない、紙垂を挟む。このロープを家々の周囲に張り巡らす。普段の俗界が神聖な場に転ずる。神輿が通る道には山から取ってきた赤土を、1mほどの間隔で一握りずつ置いてゆく。道はこれで清められたことになる(まるで馬糞のようではないか!)。夕方には玄関に掛けた“御神燈”に明かりが灯る。村の道端の“御神燈”も辺りをかすかに照らす。御神灯には「家内安全」とか「五穀豊穣」とか思い思いの言葉や絵が描かれている。一年の農作業が終わり、神を迎える準備も整った。ほの暗い宵の口、揺れる明かりに人々の心は安らぎ和んだことだろう。

 当日の早朝に“旗棒立て”がある。何人もの男衆で巨大な祭旗を立てる。たった八軒のこの村でも2本は立った。あちこちの村にも旗が立つ。昔はビルもなければ、新興住宅地もない。山と田ばかりの広々とした風景の中に、その日は何本もの旗がどこからでも見えたはずだ。旗は『神徳永無窮』であったり、神宮皇后にまつわる絵物物語であったりした。

 笛太鼓の神事の中、いよいよご神体が神輿に移される。八人の屈強の若衆が神輿を担ぐ。山から降ろされた神輿は、獅子舞を伴いながら、村々の一軒一軒を経巡るのである。途中、農業用水を渡るにも、この時だけ神橋(カミバシ)を渡る。日常、人々が利用する橋は人橋(ヒトバシ)と言われた。神輿が家に到着すると、半紙を敷いた丸盆に小高く盛った新米と、初穂料を供える。神主から神酒を受けその年の豊穣に感謝し、またそれぞれの願いを込めて飲み干す。健康に育つ事を願って、赤ん坊や小さな子供たちが神輿の下をくぐる。

 その後、賑やかな獅子舞の登場となる。花を打つと、酒の入った若者が大仰ににぎにぎしく感謝の口上を述べ、獅子と、棒振りが対峙して舞う。いつの時代も、子供が真剣に舞う棒ふりはかわいらしく、人々の笑みを誘う。夫の祖父が健在だったころは、我が家の門は開け放たれ神輿は庭深く入り、獅子舞は庭で舞ったそうだ。人々を座敷に上げ、酒肴を振舞った。
 
 折しも、今年のノーベル医学生理学賞は山中伸弥京大教授である。つい先ごろもヒッグス粒子の存在が確認された。人間の智恵は底知れないように見える時代になったけど、人は相変わらず死すべき運命を背負いながら、近未来さえ予測できない。古来変わらぬこの人間ゆえの不安定さが、スーパーパワーを求めてきたのではないか。縄文以来の様々な呪術もそのことと無関係ではないだろう。

 6世紀に日本にもたらされた仏教は、それまでの呪術とはまったく違い、新しい哲学的解決を人々に(特に支配者層に)与えた。次々に寺院が麗々しく建てられるようになった。なんだか“腑に落ちない感”が人々の心に巣食う。“こうじゃないんだよなあ、なんか違うなあ”。そんな思いが人々に神社を作らせたそうだ。仏教の興隆に伴って神社が出現したというのは興味深い史実である。1万年以上かけて日本人に染みついた縄文的体質が、鳥居、しめ縄、紙垂、狛犬、キツネ、おみくじ、森を必要としたのだそうだ。神社は現代になお生きる呪術の場なのではないだろうか。あるいは現代に残る縄文かも知れない。

 そんな訳で、加賀藩が特別に注視し用心したという、浄土真宗に染まったこの辺りでも、それはそれ、これはこれで両立するのであろう。かくて「祓い給え、清め給え」を謳う秋祭りも終わり、次はお寺の報恩講、11月には村報恩講があり、今度は寺の僧が家々を巡るのだ。外国人が驚く私たちの柔軟さも日本人なりの歴史的理由がある訳だ。 

付記1
 波自加彌神社はもとは河北潟から越中へ続く山越えの途中の四坊高坂村にあった。戦火(多分源平合戦)で焼かれ、この村の正八幡宮に身を寄せた。後“庇を借りて母屋を取る”がごとくになった。文久のころには正八幡宮の名も使われていたのだろう。
付記2
 四坊高坂村は、四坊すなわち四つのお寺がある栄えた村だったのだろう。このあたりは田近郷で、河北潟から越中へ行く道を田近道あるいは田近越えという。波自加彌は“田近の神”がなまったものとも考えられる。現に波自加彌神社の神主の名は田近さんである。
(2012年10月 satoyamachika記)

2019年3月24日日曜日

里山暮らしのスタート 2004年えこナビ掲載

筍 satoyamachika画
夫の定年退職に伴い、33年振りに故郷金沢にUターンした。もうすぐ津幡という金沢市北端の山あいで、老両親は首を長くして私達の帰郷を待っていた。古い家は明治の面影を残す、典型的な“田の字型”田舎家で、私達の同居は難しい。同じ敷地には土蔵と今は使われず朽ちかけている昔の米土蔵が連なって建っている。古い農具や、梅干し、味噌置き場になっていた米土蔵の方を改装することにした。朽ち落ちていた床を張り替え、雨漏りする屋根もふき替え、南側に天井まで届く長窓を開けた。それに、片隅に箱を置くようにトイレ、風呂、洗面、ミニキッチンなど水周りをプラス。これが、私達熟年夫婦と猫2匹の終の棲家である。
この米土蔵は昔この家が地主として最も栄えた頃に建てられたそうだ。築110年になるという。太い梁、柱、垂木などには昔の大工の跡が残っている。今だったらボルトか何かで止めるところには、両方の木にまたがるようにいわば“木ボルト”が深く差し込まれている。あちこちに墨壺で引いた線が残っている。柱の隅には墨で書かれた番号が残る。時に、墨をこぼした跡まであって、何だか大工の汗まみれの息づかいまで聞こえてくようだ。壁は巾の広いクサマキで、その木肌は当時のままで艶やかだ。
四つある小窓には、土蔵を包む“鞘(さや)”のガラス窓、鉄格子、ネズミよけの網の戸、今度取り付けた網戸、木窓と5重装備だ。こんな小窓だけれど、月明かりが木立の向こうに茫とかすんで見えたり、朝日の紫や、夕日の茜に染まった光が射し込んだり、今は新緑が美しくのぞき見える。
この里山で、先々代あたりまで食はもちろん、時に衣や住までもその恵みに依って成る暮らしが繰り広げられてきた。桑を育て蚕を飼い、糸を紡ぎ、織り、縫った。味噌、醤油はもちろん、自家製の茶まで作っていたそうだ。海から海水を運んで大釜で火を焚き塩も作った。その大きな甕は今も残っている。そんな父祖伝来の手触り感のある生活を私達も体験してみたい。この歳ではほんのさわりだけになるだろうが・・・それでもこれまでのサラリーマン家庭の都会くらしとは別の何かがありそうな気がする。例えば生き物としての人間の感覚、充足感といったものを味わうことができるかもしれない。
さて、どのような日々が展開されるのだろうか。窓の外には繁茂し過ぎた孟宗竹が見える。
木々も伸び放題で近所迷惑になっている。山から染み出す水が敷地まで迫っている。仕事は山積みだ。まずは竹用鋸やチェンソー、チェンソー目立て器を買ったが、その前にマニュアルは読破が待っている!ともかくもこうして、にわか木こり、にわか農婦の生活がスタートした。随時山里便りを発信できれば幸いです。 kantoramom記 いしかわ環境パートナシップ県民会議刊「えこナビ」1号2004年

2019年3月22日金曜日

桜山

昨年(2018)3月の桜山予定地
昨年(2018)9月の桜山予定地
金沢の山側環状道路を能登方面へ北上するといたるところで住宅地の側まで竹林が迫っています。この丘陵は加賀と越中の国境の山々です。花園村は江戸時代から花卉栽培の盛んな所で、丘陵地帯では梅、花桃、松などの花木 を栽培出荷していました。ですからこの辺りは春になると花が咲き乱れる美しいところ、花園村だったのです。今は花農家も後継者難などで、少なくなりました。上の写真の右手の方はそのような花木の畑だったのですが、今は竹林です。
  ある程度以上の面積がまとまれ竹を伐り倒すことに補助が出ます。昨年、この山の伐採に補助が適用され、森林組合が受託して、竹を伐ってくれました。ずいぶんさっぱりしました。
 このまま放っておいたらまた元の竹山になるか、或いは人が入りにくいブッシュになっていきます。
この山は町内の団地からも良く見える場所です。そこで皆さんに提案して、花園八幡桜の会を結成し、みんなで桜を植えることにしました。桜は広葉樹で比較的早く成長します。しっかり根を張るので、土砂崩れの防止の効果もきたいできます。何より美しい花は私たちの心を和ませてくれると思います。来年には少し花が咲いてくれるでしょう。                        

2019年3月20日水曜日

一切平等極楽世界を目指す 八田與一の信条3

與一から平盛宛ての手紙


 昭和七年頃與一から平盛へ送られた手紙です。この手紙では一切平等極楽世界を目指すという與一の信念の内容が語られています。
 
(前略)僧侶は差別の中に無差別を意識すると申しますが説明には止むを得ぬからあきらめる様申しますが之は他力或いは○き程度の自力派に適せん言葉にして唯我独尊性の人間には通用しませぬ思(念)うことできざるはない一切平等極楽界でせう之は余り他言はできない言葉です釈迦すら一枝の花を以てまかかように説明したではありませぬか。我々の到達すべき山頂は明白です其の達すべき道を行くにしかずです。道には差別の世の無差別を意得し遅々として進む他力方法もあり七度生変りて希望を達せんとする自力方法もあり釈尊自身所持せる直にやらんとする方法もありませう。


道は何か。道は山頂と云う理想を以て進めば必ず通ずるものです。然るに現在の政治家に此の理想あるものがありませうか彼らの理想は現在主義で自利のみではありませんか。選挙民に第一に教うるは人間の理想即ち極楽世界ではないでしょうか。利他ではないでしょうか。一般民衆(愚民)には真宗の教えの如きものではないでせうか。理想に進む悟道達人に反対せない事です。自由に手腕を奮はせん事です此の自力他力の問題では一度夜間貴下と面談せなければ説明困難です理想家に教うるには物心一致して進む事です何れが先に進みましても不平があり困乱がありませう。之がわからぬと井上蔵相露国皇帝となり。レーニン。となりませう。
非常時々々と国民は尻を叩かれ何にもしらぬで尻を叩かれたる馬の如く飛び上がりて吠えて居るのではありませんか。
露国の「スターリン」と云うのはレーニン以上の偉人の様に思います初め教育に重きを置き心を教え次産業十ケ年計画で物を居き物心一致を弁え居るものと云うべきです。
但し産業十ケ年計画位の物の進歩では未だ共産主義と云う心には程遠しです世界の科学は其程進歩して居りませぬ。国家社会主義位迄の進歩です。唯資本主義。資本的自由主義は科学にずっと遅れて居ります。機械と云う物の進歩のため物余りて食う能わずと云う世界を造りました。
平盛様      八田



分かりにくい文章ですので、筆者の解釈を入れて読んでみます。

真宗の僧侶は阿弥陀如来の力すなわち他力によって、皆等しく救われるのだから、現世の差別についてはあきらめるように説いています。しかしこれは他力の人や一部の自力の人に通用する言葉で、自分のような唯我独尊の釈尊を信じている人には通用しません。思うことが何でもできる一切平等極楽世界を目指すべきでしょう。
こんなことを言うと危険思想の持ち主と思われるかもしれないので、あまり他人に言うことはできません。釈尊が何も言わずに、一枝の花を弟子の摩訶迦葉(まかかしょう、まかかようとも)に示したとき、摩訶迦葉は釈尊の言いたかったことをすべて理解したではありませんか。そのように貴下も私の言いたいことを理解してほしいのです。
我々の目指すべき山頂即ち一切平等極楽世界は明白でしょう。そこに至る道を進まなければなりません。
 理想を持って進めば、道は必ず通じるはずです。政治家は理想を描き、一般大衆を導かねばならない。利他でなければならない。しかるに現在の政治家は自利ばかりである。
一般民衆は理想社会を実現しようとしているリーダーの邪魔をしないで自由に手腕を発揮させ、それに従っていればよいのです。阿弥陀如来の他力にすがることと同じである。自力他力の問題は、貴下と一晩じっくり話をしないと説明できません。
リーダーは、精神的な理念と経済的な利益とを同時に提供していかなければならない。さもなければ井上蔵相やロシア皇帝やレーニンのように暗殺されることになりかねません。
 スターリンは教育に力を入れ、同時に十か年計画で生産も確保しようとしている。即ち物心一致で進めようとしている。資本主義は遅れている。社会主義は科学的であるが、科学はまだ十分進歩していません。

 與一は差別のない、一切平等極楽世界が理想であると言っています。これを現実の世界で達成したいと考えていたようです。リーダーは利他の精神で民衆を導き、民衆はこのようなリーダーの邪魔をせず手腕を発揮させるべきであると言っています。
 この手紙でも仏教の言葉が多く使われています。1926(大正15)年の與一の言葉にある華厳経とは、このようなことを言いたかったのではないでしょうか。
 社会主義について好意的な記述もあります。ロシア革命は嘉南大圳工事半ばの1917(大正6)年に起きました。與一が現世で平等世界を実現したいと考えたのは社会主義の影響もあると推測されます。社会主義の大きな矛盾が露呈するのはかなり後のことで、当時の知識人が社会主義革命に大きな影響を受けたことは事実です。與一も関心をもっているようですが、しかしあくまで仏教の教えを信条として民衆の生活向上を実現しようとしていたと言えるようです。

2019年3月18日月曜日

人格を高めることにより仕事を完遂 八田與一の信条 2


伊東平盛日記

嘉南大圳の工事が始まって六年目の1926(大正15)年3月、八田與一の母さと子は脳梗塞に倒れ5日に亡くなりました。與一は台湾より駆けつけ、臨終に間に合いました。その夜が通夜で、翌6日葬式、7日に中陰並びに灰葬が行われました。9九日には八田家の返礼として親戚や近隣を回りました。平盛はこのすべてに與一に同道しました。そして與一は10日に平盛を訪ね一泊して語り明かしました。その一部始終が平盛日記に記されています。
3三月10日の夜、與一が語った言葉が平盛日記に記してあるので、原文のまま掲げておきます(句読点は筆者挿入)

伊東平盛日記大正十五年
三月十日與一氏来訪一泊す。
人格を高めて安心の境地に進み仕業の完了を期せん。但し安心決定なきものは凡ての事業に対して最後の一分間の忍耐と決彩を欠く。尤し信念は之れ釈迦を信するも、釈迦成道の最初の言は尤もよろしかる可志。然ば華厳経は彼の唯我独尊の第一声たれも、如実に彼の思想を発表せしものならん。
凡てのものは七十有五の電子の作用なり。霊魂もまた如斯。人死せんか霊魂の電子は茲に活動を中止し、また業達せざる可し。死して後霊魂の業達云々は望む可からすと雖も、宇宙間何処らか存在して、時日を経に従ってその量を変せられとも、質は広く且つ薄く広がり行く可し。然れば死後其人の霊魂は宇宙間に存在して、肉親知人の間に其有せし思想を感染し得るとせし。密教其他の昔時の人々の考察せし事は、即ち霊魂の電子が現に生存せる肉親の人々の霊に感応せるもの謂ならんとは八田與一氏の説なり。説の如く信し之を以て他の論書と愚策を行ふといへり。

文章は二段に分かれていて、初めの段では事業を進めていく際に必要な信念について語っています。ここでは仏教の言葉がいくつも出てきて、與一が仏教に高い関心を持っていたことが分かります。安心決定(あんじんけつじょう)とは阿弥陀仏の誓いを信じて、少しの疑いもなくなること。転じて、信念を得て心が定まること、と辞書にあります。
與一は事業を完成させるためには、リーダーが信念を持ち、これを貫くことが肝要であると言っています。そして自分の信念の基本は仏教であるが、中でも華厳経が、唯我独尊の釈尊の第一声であるから重要であると言っています。
華厳経は大変長い経典で、一般にはあまりなじみがありません。東京大学名誉教授の木村清孝氏は「華厳経をよむ」の中で次のように述べています(横線筆者)。
「華厳経は、釈尊がブッダガヤーの菩提樹のもとで実現されたさとりの世界、その世界の内景をそのまま表そうとしたものである、という見解が一般的です。しかし「華厳経」が説こうとするものは廬舎那仏の世界だけではありません。おそらくそれ以上に、その仏に支えられつつ、利他の願いをもってさとりの世界へと歩を進める菩薩の実践を説き示そうとしているのです。」
「釈尊のさとりの場がそのまま生きとし生けるものを救い取っていく場へと開かれてくるところを、限りなく照らし出す光に託して表現している」
奈良の東大寺は華厳宗のお寺で、大仏は廬舎那仏の光が世界の隅々までを照らして衆生を救う姿を表わしているという。華厳経が利他の願いをもって生きとし生けるものを救い取る、という教えであるいうことは、別に紹介する昭和7年ごろの與一の手紙の内容と共通するものと思われます。

死後は原子となって思想を伝える
 與一の言葉の後段では死生観を科学技術者の観点で語っています。「凡てのものは70有5の電子の作用である」の電子原子というべきであり、平盛の聞き違いと思われます。物質はすべて原子でできており、現在では九十種類の原子が天然に存在すると分かっています。
與一は全ての物質は原子でできており、霊魂もしかりであると言います。だから人が死んでしまうとその霊魂もそれを構成していた原子に返って、広く薄く宇宙空間に拡散してしまいます。然しそれは厳に存在していて、残されている人々に働きかけ、その果たし得なかったことを継続させようとする。昔から密教で霊魂の働きかけを説いていたが、これは、実は原子の作用であったのだと平盛に話しました。
 與一は人々の心の中にある霊魂の働きを、科学の言葉で説明しようとしている。そして、困難な巨大プロジェクトを指揮している自分自身が、たとえ事業半ばで倒れることがあっても、残された人々がその思想を継続するはずであると、考えていたのではないでしょうか。




2019年3月17日日曜日

八田與一の信条 1



台湾総督府正装の八田與一
テキスト ボックス: 八田與一から伊東平盛の手紙(昭和七年頃)八田與一が公共埤圳嘉南大圳組合技師を拝命し、工事に取り掛かったのは1920(大正9)年でした。嘉南大圳の総工費5,300万円は現在の価値で約4千億円、その規模は当時の国家予算の3%に相当しました。関係する農民は数十万人にも上る国家的大プロジェクトでした。
土木工事には事故の危険があり、大規模な水利工事に失敗すれば災害の恐れもあります。極めて大きな責任が、34才の青年技術者の肩にずっしりとのしかかわけです。八田與一はどんな思いで巨大プロジェクトに臨んだのでしょうか。
與一の思いを推察する手がかりとして、三つの資料を紹介します。一つは親友伊東平盛の1926(大正15)年の日記に書かれている與一の言葉です(平盛は筆者の祖父)。一つは與一から平盛にあてた1932(昭和7)年ごろと思われる手紙です。さらにもう一つは與一が1932年に台湾のロータリークラブに入会した際の挨拶文です。それぞれを紹介しながら、與一の覚悟について考えてみたいと思います。
この項は「回想の八田與一」北國新聞社2016年刊に筆者が寄せた寄稿「釈迦を語った八田與一」を改稿して載せます。

昔の里山 キヤマ:雑木伐採



上の写真の上部を拡大
 写真は1960年ころのキヤマの様子です。低い山で雑木林を皆伐しています。男たちが斧や鋸で木を倒しています。最下段の写真左奥の道路わきに、倒した木を縄で縛って積み上げてあるのが分かります。これを1.5kmほど離れた河北潟まで運び、漁礁にしたようです。
左の人物の奥の方にキヤマで倒した木が積み上げてある
山は皆伐され裸山になりますが、萌芽から再生し15年ほどのサイクルでまた雑木林になります。この山の奥の方にあった集落では炭焼
きが盛んで、山へ通じる道の入り口にあった家では、街へ出荷するための木炭を納屋に預かっていたそうです。この道は今は廃道となって藪の中にかすかに痕跡が残っています。筆者も子供のころ父に連れられてこの道を上り、キノコや栗を採った記憶があります。今は畳屋さんになっている葛巻さんの先々代当主は名前の通り山の葛を集める仕事だったので、筆者の家にも宿を借りたことがあるそうです。
縄文時代から、山は生活にとってとても大事な場所でした。薪や炭などのエネルギー源、クリ、アケビ、山菜、葛、筍などの食糧、建物や家具などのための木材、そして稲作が盛んになってもその水源は山にあるため保水力のある広葉樹林は大事なインフラだったのです。
孟宗竹は太くて丈夫、木材に比べて軽いので足場などいろいろな場面で使われました。桶のタガやザルなど、生活の場面にも使われました。孟宗竹の筍は美味で、今でも市場へ出している人もいます。竹は地下茎で増えるので、簡単に移植できます。この辺りの山はほとんど竹林になっていますが、自分の家の近くにも竹が欲しいと思った人がいたのでしょうか。
石油がエネルギーの主役になったことによって、生活の中に占める里山の役目は終わりました。
人が山へ入らなくなって今、里山は荒れています。家の側まで竹林が迫り、日照を遮り、風が通らず、いつもジメジメしています。せめて家の周囲だけでも里山を復活させたいと、活動してきました。

2019年3月16日土曜日

里山再生


今日的な意味での「里山」の語を使い始めたのは四手井綱英京大農学部教授だそうです。そして「里山は荒れている」とか「里山再生」などと使われることが多いように思います。石油が安く大量に消費されることになって、日本の里山はそれまでの経済的な意味を失ってしまったのです。筆者は低い山が平野に接する地帯の里山に暮らしています。家の周囲には荒れた里山が広がり、いろいろな意味で生活を脅かしています。かつてのような里山に戻すことは難しいのですが、何とか穏やかな生活ができるようにしたい、里山の現代的な活用を目指したいと思っています。
 里山で最も繁茂している植物は孟宗竹です。昆虫によって花粉を運んでもらう必要もないし、鳥に種を運んでもらう必要もなく、地下茎で横へどんどん広がります。筍の旺盛な成長ぶりで分かるように、他の植物より早く高くなるので、それまで里山の主体だった広葉樹は光合成ができなくなり枯れてしまいます。孟宗竹は10年ほどで枯れて倒れます。また、湿った重い雪の積もる北陸では密集した竹が重なりあって倒れるので、足を踏み込めないくらいになります。よく、竹は根を張るので地震に強いと言いますが、実際は根が浅く、土砂崩れに対する防御はほとんどないと言っていいでしょう。
倒れた枯れ竹を切って整理している

竹が重なりあって地下茎と一緒に倒れるので、地盤がむき出しになる
写真は竹が重なりあって倒れ、地盤がむき出しになったところです。孟宗竹を伐り倒して地面を開け、広葉樹を育てることが里山再生のスタートです。

2019年3月13日水曜日

和蝋描壁掛け嘉南大圳工事模様

絹地に細かな模様の染色されたこの壁掛けは1930年嘉南大圳が完成した際の記念に、八田與一から関係者に贈呈されたものです。作者は伊東哲で、本土からの職人と台湾の補助者の共同で作成されました。細かなことは分かりませんが、蝋で輪郭を描き、その中に一つ一つ染色液を入れていくという、気の遠くなるような作業で描かれています。
和蝋描壁掛け嘉南大圳工事模様 伊東哲1930

この壁掛けには八田技師の思想が描き込まれています。大型機械の導入、セミハイドロリックフイル工法による堰堤工事、現場に従業員と家族のための宿舎や生活を支える施設を建設すること、など当時の常識を破る工事手法が読み取れます。

左上方は烏山嶺を貫く取水トンネル
左上のトンネルは烏山嶺の向こう側の曾文渓から水を引くためのもので、さらに奥に取水口が描かれています。このトンネルの工事中に爆発事故があり多数の犠牲者が出ました。
烏山頭ダム堰堤
画の中段左は建設中の烏山頭ダム堰堤で、機関車に牽引されたダンプ式の貨車が土砂を運んできて、堰堤を積み上げていく様子です。落とされた土砂にポンプから水をかけると大きな岩や石は残り、細かな砂や粘土は流れて堰堤の中央付近にたまり、中心に粘土のコアを作っていきます。これが八田技師独自のセミハイドローリック工法です。
右上方は大内庄の土砂掘削現場
烏山頭から南へ約20キロメートル大内庄での土砂採掘現場です。スチーム式の大型掘削機が曾文渓河原の土砂を掘り上げています。この土砂を列車で運んで堰堤を建設しました。
画面中央の空中索道起点
中央の小屋は空中索道の起点で、セメントやレンガなどを左上の烏山嶺トンネルまで運びました。小屋の左方向へ、次いで上方へ索道の塔が見えています。
右下の工場群および烏山頭駅
右下の高い煙突のある赤い建物はレンガ工場です。トンネルの内装はレンガ張りでした。そのほか、工事を支える工場群が描かれています。赤い円錐と黒い円筒状のものはニードルバルブで、ダム放水口で水量を調整するための道具です。工場群の下に烏山頭駅があり、番子田駅(現在の隆田)から7キロメートルの支線を引き、貨物と人を運びました。その下は木工所と従業員宿舎と思われます。
左下の小学校、浴場、市場、従業員宿舎および工事事務所
左下に赤い門柱がありランドセルを担いだ子供が入ろうとしているのは従業員子弟のための学校、六甲尋常高等小学校です。浴場、穀物商、娯楽室、などが見えます。青い乗用車のドアに嘉南大圳のマークが描かれており、公用車と思われます。公用車から降りて工事事務所へ入ろうとしている人は八田與一に違いありません。
この他、台湾の動植物、例えば水牛(堰堤を踏み固めるために使われた)、サル、サギ、ライチ、マンゴー、バナナ、パパイヤ、ヤシ、木綿樹、鳳凰樹、アポロ、朝顔、など多種が描かれている。また、着物を着た日本人女性や洗濯する女性、現地の人らしい人など賑やかな町の様子です。

八田與一紹介 Yoichi Hatta


八田與一紹介 Yoichi Hatta
八田與一56歳  写真は筆者所有
八田與一は1886(明治19)年石川県河北郡花園村字今町、現在の金沢市今町の豪農八田四郎兵衛の四男として生まれました。東京帝大工科大学を卒業後台湾総督府土木部工務課に勤務、嘉南平原灌漑事業の企画、調査の後1920年嘉南大圳建設を実行しました。これは嘉南平原15haに給排水路と水源ダムを建設する事業で、10年の年月と5,000万円(現在の価格で約4,000億円)の費用を要しました。この結果、この地域の生産量は飛躍的に向上し、農民の暮らしも良くなりました。與一は第2次大戦中の1942年、フィリッピンの治水事業を行うために向かう船が米軍の攻撃を受け沈没死亡しました。戦後台湾は国民党の支配下となり、日本の仕事は否定されましたが、その中でも農民の手で密かに墓前祭が営まれ、現在では日本からも多数が参加しています。
嘉南大圳は当初の計画では7haの潅漑でしたが、それでは嘉南平原の半分ほどしか潤いません。與一は15haにまで広げることを提案、説得しこれが採用されました。
また、工事に当たっては欧米の最新技術や大型機械を導入し工事期間短縮を計りました。烏山頭ダムの堰堤建設にはセミハイドロリックフイル工法という独自の方法を考案し実行しましたが、これは建設費用低下と堰堤の寿命を延ばすことにつながっているということです。烏山頭ダムは完成時17,000万㎥と世界一の貯水量でした。給排水路の総延長は16,000km、防潮提96kmという壮大なものでした。
烏山頭はジャングルの中にあり、マラリアの危険もある地帯でしたが、與一はここを開いて従業員の町を作り、家族も呼びよせて安心して働ける環境を作りました。
嘉南大圳工事はこのようにそれまでの常識を破る画期的なものでしたが、それを指揮した八田與一は着工当時34歳でした。若い技術者がどのような思いで大事業に当たったのかを考えてみたいと思います。


Yoichi Hatta (1886-1942) was born in Hanazono Village. He was a civil engineer, employed be Taiwan Government. Taiwan was administered by Japan at that time.  He constructed a large scale irrigation facilities in Chianan plane, southern part of Taiwan. The facilities include Wusanto Dam, which could reserve 150 million tons of water, water supply and drain waterway, total length reaching 16,000km, and 96 km length tide embankment. Wusanto Dam was the biggest dam in Asia. The facilities can supply water to 150 thousand ha (370 thousand ac) of Chianan plane which is 14% of total farming area of Taiwan. Half of the construction cost was paid by Japanese Government and the rest was by the Chianan farmers. They could clear off their debts within several years as their farming production increased a lot. Yoichi’s memorial service is held on May 8th every year by Chianan farmers. He is the most respected Japanese in Taiwan. 

2019年3月9日土曜日

洋画家伊東哲 Satoshi Ito, artist

伊東哲自画像

  伊東哲(さとし)は、大きな農家の次男として1891年(明治24)花園村に生まれました。金沢一中(現石川県立泉丘高校)から東京美術学校(現東京芸大)に進みました。1916(大正5)年の第十回文展に入選後、帝展を含め5回入選し、石川洋画の先駆者として将来を嘱望されていました。しかし1927(昭和2)年第8回帝展入選作「沈思の歌星」で柳原白蓮をモデルに描いたことが売名行為と中傷誹謗されたため中央画壇を離れ、二度と戻ることはありませんでした。
  当時台湾で、哲の母の従弟で幼馴染の八田與一が大規模な水利工事を行っていました。哲は1928年から30年にかけて與一に招かれて工事の記録画や與一の肖像画を描きました。その後1939年から終戦まで北京の国立芸術専科学校教授として絵を教えました。
  戦後は千葉県東金中学校で美術教師として勤務、晩年は東京沼袋の自宅で新聞の折り込み広告の裏などに、絵を描き続け、197988歳で没しました。花園村(現在は金沢市花園八幡町)の生家には習作や家族を描いた油彩、戦後の水彩画など50点ほどを展示してあります。

伊東哲に関する出版物

伊東哲  河邑厚徳「藝大生の自画像」 NHK出版2007年 p110-116
故郷に見える人間味 花園村伊東兄弟との交流から 伊東平隆「北國文華」2009冬号p42-49, 2008
 異能の画家・伊東哲の数奇な生涯 八田技師建設のダム記録画を描いた男 伊東平隆「北國文華」20013冬号p170-179 2010
 「花子とアン 柳原白蓮を描いた金沢の奇才 伊東哲画伯の数奇な人生」 アクタス20149月号p20-27
白蓮を描いた金沢の画家・伊東哲 二木伸一郎 北國文華2014秋号 p169-182
「回想の八田與一」 北國新聞社出版局編 20161215日 p18「青年與一立山に登る」に伊東哲について紹介
 歴史街道June2017 PHP研究所 p62に「嘉南大しゅう工事模様壁掛け」が紹介される
 この他古川勝三 台湾を愛した日本人 八田與一の生涯1989 p182-183に記載 

Satoshi Ito was born in Hanazono Village in 1891. He graduated from Tokyo School of Fine Arts, (present Tokyo National University of Fine Arts and Music). His art work “Husband and Wife” was accepted for the 10th Annual Art Exhibition sponsored by the Ministry of Education in 1916. His works were accepted for Exhibition of the Imperial Fine Art Academy 6 times. He was blamed strongly for his picture, “Contemplating Poet” accepted for the 8th Exhibition of the Imperial Fine Art Academy in 1927. The model of the picture was Mrs. Byakuren Yanagiwara who was a cousin of Taisyo Emperor, had run away with her lover from her husband, a rich owner of coal mines. She was morally criticized. He would not send his work to any exhibition since then. Satoshi went to Taiwan. Yoichi Hatta, his relative, offered a work to draw pictures of Chianan large scale irrigation facilities. Then Satoshi got a job to teach art at Beijing Art School. After World War II, he taught art at Togane junior high school. He drew many water color landscape pictures of the country. In his later years he drew a kind of abstract paintings of biological cells. He died in 1977 at his age of 88.