2019年4月28日日曜日

竹林から広葉樹の森へ 2014年伐採その後

2014年4月

2019年4月
2014年に伐採した竹林状態とその5年後を比べています。奥にみえる伐採していない竹林から、絶えず侵入があるので、毎年竹伐りをしています。テラス状の手前の部分にはクヌギ苗を植えました。50%くらいの苗が生着しました。あまり良い成績とは言えません。かなり急な勾配なので、大雪の年に苗が倒れたもの、イノシシが根の部分を掘り起こして多分ミミズを探したため折れてしまったもの、そして早く成長する雑木(タラ、ノイバラ、ヤマアジサイ、カラスザンショウ、シロモジなど)に負けてしまったものなどです。何とか成長したクヌギは樹高4mほどになりましたがまだまだ細くて、広葉樹の林とは言えません。その奥の方はそのような成長の早い雑木のブッシュになっています。山桜の若木を見ることもあります。これは残すようにしています。
まだ、竹林伐採後にどのように管理すべきか、できるだけ省力で広葉樹の森にしていく方法を手探りしています。

2019年4月26日金曜日

昭和天皇即位の御大典

私の夫の祖父は明治20年生まれで、昭和34年夫が高校生の時亡くなった。私は直接会ったことはないが、日記や書き残したものを通しとても親しみを覚えている。

若いころから俳句を楽しんだようで、折々の句が日記帳などに記されている。仲間との句会もあったのか、交換したと思われる俳句仲間の短冊が、手製の短冊挟みに今も残されている。祖父の俳号は樵堂である。里山の主にふさわしい号だ。
 写真はその中の一句。最初は読むことすらできない。わずかに読める“御大典”の意味も最初はピンとこなかった。
 私の母は89歳だが、だんだん昔語りが多くなってきた。ある時の昔話はこうだった。
 「御大典の日にはね、じいちゃんが私にも花笠を作ってくれて嬉しかった。まだ6才かそこらだったけどね。色の花紙で花を折るのよ。角を鉛筆に巻きつけてくるくるやると、きれいな花びらになってね。花笠かぶって皆で神社に集まって踊ってお祝いしたよ」
 夫の祖父と私の母が経験した“御大典”とは、昭和天皇の即位のお祝いだったのだ。祖父40才、母6才の時の同じ日の体験談だ。母は花笠が印象に残っているが、祖父はその感動を俳句に残した。夫とともに“くずし字用例辞典”や辞書をひっくり返しながら、ああでもないこうでもないとようやく読んだ句はこうだった。
 『御大典の日  幾久の日や六合震う万歳楽』
 “幾久”は今でも「幾久しく」などおめでたい日に使う言葉だ。“六合”はリクゴウと読み、天地と四方つまり宇宙全体という意味。“万歳楽”は即位礼など賀宴に舞われる雅楽。新しい天皇の御代になり宇宙が祝いの舞で震えている、という意味の喜びの句だったのだ。平素から素直な句を作った祖父だが、その素直な喜びがよく表われているようだ。
 それからしばらくして太平洋戦争がはじまり敗戦をはさんで価値観の大転回が衆人を覆う。天皇はもはや現人神ではなく“人間”となった。
 平成天皇の即位の時は、もう“御大典”という言葉は使われなかった。単に即位の礼といったと思う。めでたさも“六合震う”程のものではなく、物珍しさのほうが勝っていた。
 いつも世の中は刻々と変わっていますね。(2010年4月kantoramom記)

昭和15年の結婚式

kantoramom父母の結婚記念写真

昭和15年1月20日。あいにくの雪模様。みゆき(私の母方祖母)は、朝早くから大量の赤飯を蒸しながらも、しきりに空模様を気にかけていた。が、雪はひどくなる一方であった。横殴りの風に舞う雪があっという間に吹き溜まりを作る。 その日、夕方からみゆきの次女静子(私の母)の結婚式だというのに、難儀な大雪である。

 嫁入り道具は結婚式当日に嫁ぎ先に運ぶのだが、この大雪ではこの村まで車は入れず、まずはソリで最寄りの町、松任まで運ばねばならない。三つ重ねの桐タンスなど一つ一つをソリに乗せて運ぶので大勢が何往復もする。帰ってくる雪まみれの道具方に酒も振る舞わねばならない。みゆきは大忙しであった。ひとまず松任までソリで運んだ道具、土産物、藁細工の鶴亀が飾ってある大きな赤飯のお櫃二個、五色饅頭など、何とか車で金沢の婚家に運ぶことができた。みゆきは胸をなでおろした。 皆、忙しく立ち働く中、村の長老は嫁ぐ娘の膳に赤飯や魚などを取りよせて「これがここでの最後の膳だから、たくさん食べろよ」と、気遣う。(村同士の結婚だともっと大掛かりで、道具方は揃いの法被、はちまき姿で婚家に道具を運ぶ。婚家近くに来ると手にした青竹を打ち鳴らしながら、祝い唄を歌って運ぶそうだ。酒樽の口に青竹をさした巻き樽から、酒が振る舞われるという)

 花嫁もあまりの大雪に自宅から花嫁姿で出ることができず、松任のいつもの呉服屋で、赤い振袖に角隠しという花嫁衣装に着替え、そこから車に乗り込んだ。朝から赤飯を蒸したり、道具方の接待でてんてこ舞いだったみゆきも、方までにはちゃんと髪結いに行き、身支度を整え婚家まで娘に付き添った。仲人と実家代表として静子の兄や、姉の夫、母親の兄が結婚式に出席した。娘の親は結婚式に出席しないのがしきたりだった。

 婚家の玄関にはすでに五色婚礼饅頭の重ね箱が飾られ準備万端。結婚式は夕方から始まる。夕闇の中、婿側の案内人が町角で提灯をかざし、嫁方を待ち受ける。その明かりも降る雪にかき消され切れ切れでか細かった。案内人に従って花嫁一行は降りしきる雪の中、雪の塊を危なっかしく上り下りして、ようやく婚家の玄関に入った。なんとも恨めしい大雪であった。(私の小さい頃、金沢には婚礼当日、家の前に五色婚礼饅頭の重ね箱を飾る風習があった。“この家は今日結婚式だ”と、すぐに分かる。尤もこの重ね箱は饅頭屋の宣伝を兼ねた空箱で、中身は重箱などの什器に収められ家の中。あとで参列者や近所に配られる)

 まずは玄関で“水合わせ”をする。実家から青竹に入れて持ってきた水と、婚家の水を素焼の杯に入れて花嫁が飲み干し、その杯を仲人が玄関のたたきに打ちつけてわざと割るのであ。あたかも太古からのアミニズムを彷彿させるこの原始的な儀式は、不思議と同を厳粛な思いにさせる。持参した花嫁のれん(多くは加賀友禅染めで、実家の家紋が染め抜かれていて、華やかな模様のものが多い)はすでに仏間の入口に掛けてある。そこをかいくぐり花嫁は仏壇に参る。二階の座敷で三三九度をし、記念写真を撮った。冬のこととて花嫁の手はしもやけでは赤くはれていた。その手を気にして、「写真にこのしもやけ写らんかねぇ」と、静子は笑った。夫になる人、純孝(わたしの父)に会うのは、この晴れの日が2度目。1度目は娘の家で行われた見合いの席。2度目に笑えたのはかなりいい雰囲気のようだ。

 式の後、またも車に乗り込む。行き先は披露宴会場の料理屋「池上楼」。披露宴は夜の9時、10時ごろから始まり、明け方2時、3時まで続く長丁場だ。芸者の舞いあり、それぞれの方からの出し物ありで、とても賑やかなものである。「婿さん どうぞ」と出し物を乞われた純孝は、緊張してか「おじさんお願い」と、叔父に預ける。田中叔父は謡う。花嫁側からもみゆきの兄、中野伯父が謡い、宴は佳境に入る。(当時謡や華道は当主のたしなみ。家対家の社交には必須だったようだ)

 静子の披露宴の衣装は黒地の紋付振袖で、お色直しは訪問着。雪の夜に淡い電燈の明かり,桐火鉢の炭火、黒漆の御膳。すべて抑えがちなトーンの中で、花嫁の衣装は美しく際立ったことだろう。引き出物は赤飯、上菓子鶴亀、五色饅頭などの定番に加え、パイナップル、バナナ、カモ1羽など普段は手に入りそうもない珍しいものづくしの籠盛りである。こうして結婚式、披露宴は早朝お開きとなった。純孝24歳、静子19歳の若さである。(不在地主とは言え、当時花婿の父はすでになく、母一人子一人の家計は豊かでなかったはず。婿側はこの結婚式のため田圃を一枚売ったそうだ。嫁側への結納はダイヤの指輪に腕時計。結納金はもらわず、その代りお稽古事をさせてもらうことを約束した。結婚後始めた花道も、間もなく世を覆い始めた戦時色のため頓挫した)

 その後、3日目にも、5日目にも宴が持たれる。それぞれ三つ目、五つ目などと言ったり、あるいは単に部屋見舞いと言ったりする。新婚夫婦にしてはちょっと恥ずかしさの伴う宴ではなかったか。結婚式はいわば婚家側主体の儀式と宴だが、部屋見舞いは花嫁側の親戚も大勢集まり、酒を交わす。その時、間違えて酢の入った一升瓶から”酒”が注がれ、人々は閉口したそうだ。のちのちまでの語り草である。

 新婦の育った家は田舎の大きな農家。新郎の家は不在地主で家は金沢市の南端にあった。風呂には水道があり、別に上がり湯を沸かす釜もあり、町の家の便利さに新婦はいたく感じ入った。家事は次の日から始まるが、しばらくは結婚式当日に結った日本髪で過ごす。日本髪の頭で風呂焚きをし、焚き口に頭をかざしていて髪が焦げて、新婦静子は仰天。いつもと違う頭の大きさに加え、勝手のわからぬ慣れぬ家。新婦の家事スタートはこんなほろ苦いエピソードで始まった。花婿は教師で、村では誰も着ていないような立派なスーツを2,3着も持っていて花嫁は“素敵だな”と思った。その“素敵だな”は、きっと花婿そのものに対する印象でもあったのだろう。
 結婚式から一週間ほど経て“衣装見せ”がある。花嫁が持参した着物類を衣桁に掛けて親戚や近所の人に披露するのだ。このような結婚にともなう数々の行事をはさみながら新しい家での暮らしが始まる。しばらくして、“婿よばれ”があり、今度は嫁の実家で披露宴と同じような宴がまたまた持たれるのだ。結婚は双方の親にとり、なかなかに大変なことである。降りしきる雪や、当日の忙しさなどなど何ほどもないことなのだ。

付記1
 昭和15年、まだまだ家対家の結婚式であり、結婚である。何度も宴席が持たれるのは両家が馴染みあって当人同士がうまく行くようにとの配慮からであろう。また、部屋見舞いなどと称する婚家訪問は、そのものずばり、親が決めた結婚なので責任を負う親側が、うまくいっているかを窺う偵察に近い訪問であったろう。親が子供の結婚を決める時代、責任を負う親側は結婚式後、あれこれにかこつけて様子を見たい思いに駆られるのであろう。このような結婚の形態は、ずいぶん長い間続いてきたと思われる。この結婚式から、30年後。私たちの世代の結婚式は昭和40年代。親たちのあのような経験はやはり娘、息子の結婚式、結婚に関しても尾を引いていた。私たちの結婚式は昼間ではあったが、親たちの時をほぼ踏襲したもので、友達からはとても珍しがられた下の兄弟たちからは、状況が変わり結婚式場で神前結婚となった。
 その又次の世代、私たちの息子、娘の結婚は平成時代。大方は恋愛結婚。しかも結婚年齢はぐっと高くなる。式は教会で、讃美歌を歌い牧師の説教を聞く。披露宴は新郎新婦が演出し、費用も彼ら持ち。親は招かれるだけである。何という劇的な変化であろうか。変化のスピードはまるで鉄塊が落下するときのように大きい。
 米疾病対策センター(CDD)は先ごろ、2006年または2007年に生まれた子供のうち、母親が結婚していない子の割合が欧米の多くの国で40%以上になるなど、婚外子が急増していると発表をした。日本のそれは2%と格段に低いが、鉄塊の落下先にはこのような結婚制度の大きな変化も予想される。
付記2
 昭和15年のこの結婚式のころはまだ花嫁は振袖を着ることができたが、戦時色が濃くなってくると、留袖を着ることを強要されたそうだ。しかも裾模様を黒い布で隠して車に乗り込むということもあったそうだ。何だか滑稽でむなしいですね。(2009年7月 88歳母に聞き取りをして記するkantoramom記)

第1回帝展(1919年)入選作 野

野 1919年第1回帝展入選 96.5x135
1916年文展入選の夫婦に続いて、1919年の第1回帝展に入選した作品です。夫婦では漁村の朴訥な感じの老夫婦を祖の古そうな家も含めて写実的に描きました。また自分の家族や近所の農夫をモデルに同じように写実的な人物像を描いてきました。
しかしこの絵では画風を大きく変えて、若い女性を柔らかいタッチで描いています。背景の風景も丸く柔らかです。この間に哲は結婚しています。そのことが影響しているのかもしれません。このようなモチーフでの入選は3作品続きます。

2019年4月25日木曜日

八田四郎次 化学工学概論の著者

八田四郎次は花園村今町出身の英才で、東北大学工学部長を務め、第10代日本化学工学会会長にもなりました。八田四郎次著の「化学工学概論」は名著の評判が高く、私も学生時代お世話になりました。四郎次は1895年の生まれですから八田與一の9歳下になります。生家は與一の生家八田(屋号は八田屋)から2軒離れた「しおや」という屋号の家です。しおやは八田屋の分家ですが、しおやがどういう意味なのかは分かりません。本家の八田屋当主は代々四郎兵衛を名のっていましたので、四郎次の四郎もこれに関係すると思われます。
四郎次も與一を追うように金沢一中から1919年東京帝国大学工学部に入学、1926年には東北大学助教授、1829年に米国マサチューセッツ工科大学に留学し、1938年に東北大学教授になっていますので、優秀な人だったに違いありません。
伊東哲の弟で金沢医専を出て医師となった伊東政外は八田四郎次と小学校から金沢一中まで同期でした。伊東政外は米国留学中に死亡して日本で葬儀が営まれました。その時の八田四郎次の弔辞を紹介します。その頃の雰囲気の溢れる美文調の文章です。


弔詞

謹んで故伊東政外君の英霊に告ぐ。嗚呼君遂に逝(ゆ)いたるか。悲しい哉。顧みるに君と予とは同じ村に相前後して生まれ未だ東西をも辧(わきま)えざるの幼時より相知り今町尋常小学校四か年と森本高等小学校三か年と同級にて共に学び共に遊び更に金沢第一中学校へも同時に入学したり。斯(か)くて五か年の後大正二年三月卒業するまで合計十二か年の学窓を共にしたりき。独り学校に於いてのみならず私交に於いても亦意気相投ずるものあり。相助け相励まして各々其の赴く所に向て他日の大成を期したりき。君金沢医学専門学校を卒業既に医家として一通りの素養あるに満足せず進んで斯学(しがく)の根本を究め斯道の権威たらんと志し先ず母校に於いてし次いで九州大学に赴き更に東都に出でて岡田博士の門に入るや進境著しきものありき。当時予と寓を近うしたれば交遊常に繁かりき。君更に研鑽の地を海外に求め大正十年春洋々たる希望に充ちて横浜を出帆せり時予も之を埠頭に見送りて前途を祝福したりき。何ぞ計らん之が永遠の離別たらんとは。爾来米国に於いて君の精励は蓋(けだ)し尋常ならざるものあり。着々進境ありしも不幸にして病魔の犯すところとなり君意強く気昂(たか)しと雖(いえど)も病躯立つ能わざるを如何せん。病床に横たわる事数年遂に彼岸へ赴けり。嗚呼悲しい哉君が病床に於ける思いや如何なりけん。既往を省み前途を考え故郷を偲び骨肉を懐うの情切なるものありしならんも万里を距てし異境なるを如何せん。思うて茲(ここ)に到れば予等も亦断腸の思い轉(うたた)禁ずる能わず。然りと雖も君請う安んじて瞑せよ君の志は中道にて已(や)みたるも君が奮闘の意気は万人の士気を鼓舞するに足る。予等又赴く所を異にするも君が意気を体して益々奮励せん事を誓う。一片の弔詞以て泉下に通ずるを得ば英霊希わくは来たり亨(う)けよ。

  大正十四年十一月八日    八田四郎次

2019年4月21日日曜日

スズメバチトラップ

 スズメバチは動物による死者数ランキング日本1位の危険な生き物です。里山ではしばしば遭遇します。私は山で草刈りをしていて、スズメバチに接近してしまいました。私はすぐ草刈機のエンジンを切りました。蜂は私の後ろですぐ近くまで来たようですが、じっと動かずに立っていました。数分して蜂は離れていき、私も無事帰ることができました。こんな時、黒い服は危険です。ツキノワグマは蜂の巣を襲って幼虫を食べるので、黒い色を見ると攻撃するのだそうです。


トラップの作り方
スズメバチは女王蜂が越冬して、春になると巣を作りたくさんの働き蜂を産みます。だから女王蜂を捕まえるのが効果的な防除方法です。作り方はこの絵の通りです。4月下旬にこのトラップを木に掛け、5月末に外します。毎年2個のトラップで100匹ほどの女王蜂を捕まえます(動けないほど一杯になるので、途中で1回取り出し、液を更新して掛け直します)。

第2回帝展(1920年)入選作 高原 

高原 1920年
縦91cm、横182.8cmのこの大作は第2回帝展に入選した伊東哲の代表作です。哲の生家に預けられていた間にひどい虫食いが発生し、石川県立美術館の二木伸一郎さんを中心に大規模な修復が行われました。野外でくつろぐ若い女性を描いた作品は、ルノワールの女性にも似てこのころの哲の作品の典型と思われます。

2019年4月19日金曜日

ムカデ 2005えこナビ3号掲載

ムカデに出くわしたことがありますか? 昨今の気密性の高いマンションや町中の近代的住宅暮らしでは、一生ムカデなど見ないで終わる人もきっと多いことでしょう。
 
猫の寛太郎
この里山の新しい住処でこんなに多くのムカデに出会い、しかも自ら戦うなんて思ってもいませんでした。我らが終の棲家は、元(もと)米土蔵。戦後は本来の目的で使われることもなく放置され、床は崩れ落ちたままになっていたからでしょうか。越して来て一年目の昨年、暖かくなるにつれ壁板や天井板の隙間に潜んでいたと思われるムカデが出るわ出るわ、その数優に20余匹。しかも10㎝前後の大きいものばかりです。夜な夜な降り落ちてその百足ではい回るのです。胴体は黒っぽい紐のようですが、無数にある脚はオレンジがかった褐色でいかにも気味が悪いものです。その節々はまるで固い鎧のようで厚い本の角や、板切れで思いっきり叩かないとなかなかへたばりません。床に残る断末魔の黒紫液は拭いても容易に取れません。人もいざとなると残酷なものですね。
 猫の寛太郎も寅次郎も、どこにいようが必ず見つけて騒ぎます。きっと鋭い聴覚を持つ彼らには、その百足の歩く音が聞こえるのでしょう。シャカシャカシャカ、ゾロゾロゾロ、それともガサガサガサか。ある夜、寛太郎はこれをしとめようと戦ったのはいいのですが、どうも噛まれ毒液が体内に入ったらしく、吐いてばかり。エサも、水も口にすることができなくなってしまいました。検査の結果、肝機能が著しく落ちていました。回復にはかなり時間がかかりました。以来、寛太郎はムカデを見ると怯えて遠巻きにうろうろするだけです。
 こともあろうに里山を知り尽くし里山の主とでもいうべき母屋の舅まで、ムカデに噛まれました。畑用のゴム手袋の中に潜んでいたのです。とても痛がるので慌てて病院へ。ステロイドの入った点滴でだんだん痛みは治まってきました。マムシほどではありませんが、ムカデも人には危険な生き物です。
 そういえば、『枕草子』にもムカデのことが出てきます。“古き所なればむかでとふもの日と日落ちかかり、、、、”と。それから『あしながおじさん』にも。蔦のからまる古い寮の一室で主人公ジュディ・アボットのルームメートはジュディのヘアブラシで叩くのです。ジュディは又ブラシが台無しだと嘆きます、、、。古今東西を問わないようです。当然ですね。ムカデのルーツの方がヒトよりずっと古いのですから。
 狩りの得意な寅次郎はムカデと上手に戯れます。外ではモグラの子供、仔ネズミ、アオジの幼鳥など捕まえて自慢そうに見せに来ます。ヘビを見せに来たときにはさすが喫驚です。さまざまな生物種との共存とはいかなるものか、里山に暮らしてみて考えることしきりです。私達の方が彼らのテリトリーへの闖入者であることは間違いありません。せっせと家の周囲を整理整頓し、テリトリーを分けて住むことが穏やかな共存の一案でしょうか。早くも今夏のムカデ1号がやってきました。このところ寛太郎は又吐いて元気がありません。去年の痛い経験はどこに行ったのでしょう。少しは里山の危険を学習して欲しいものです。
付記 数年前から「凍殺ジェット」なるものが売られていて、吹きかければあっという間に凍ってしまい、後始末もきれいで簡単です。(2015年夏記)
付記2 ムカデの毒は熱に弱いのだそうです。噛まれたらすぐ43度くらいの湯で温めると徐々に痛みが引き、予後も良いようです。(2018年)kantoramom記

白蓮を伊東哲に紹介したのは犀東か

 伊東哲は1916(大正)年の「夫婦」以降、次々と文展、帝展に入選してきたのですが、昭和2年に柳原白蓮をモデルに大作「沈思の歌聖」を出品しました。哲は特選を狙ったようですが、特選はならずまた批評家から売名行為などと厳しい批判を浴びたことから、二度と中央画壇に作品を出品しませんでした。哲の人生の大きな転機となった事件でした。白蓮は大正三美人の一人とも言われ、大正天皇の従妹に当たる有名人で、田舎者の哲とは縁遠い人のはずです。白蓮を哲に紹介したのは誰だったかは大きな謎ですが、最近それは同郷の漢詩人、国府犀東ではなかったかと思わせる資料が出てきました。
 1927(昭和2)年10月25日消印の犀東から哲の兄平盛へ宛てた手紙には次のように書かれています。
(略)先以而哲様御丹精を凝らされし沈思の歌聖入選ならせられ奉大賀候意外なる紛議を沸騰せしめ由にてお気の毒に奉存じ候充分にや特選あるべき御力量に累度ほせしやにて獨く痛心罷在候(以下略)。また、この手紙には「沈思の歌聖」の絵葉書が添付されており、その宛名面に右のような寄せ書きが書かれていた。右から、白蓮、野田茂重、操、南弘、伊東哲、国府種徳(犀東)です。
おそらく、帝展の会場に集まった旧知のメンバーが絵葉書に寄せ書きし、その一枚を犀東が送って来たものと思われる。
南弘は1869(明治2)年富山県の生まれ。四高、東大政治学科と犀東の先輩で、内務官僚から1912年貴族院議員、1913年から福岡県知事、1918年から文部次官であった。犀東の内務省勤務は南弘の推薦があったのかもしれません。また南弘も漢詩を作り、犀東とは公私でつながっています。白蓮は福岡の炭鉱王に嫁いでいたので、そのころ知事の南弘とは顔見知りであったかもしれません。

哲から平盛へ宛てた1927(昭和2)年10月の手紙の中に、「先夜もある小集会にて南弘夫人、国府夫人、白蓮夫人とこの話題が出ました」という部分があります。話題は国府家の嫁取りの話ですが、これらの人たちが夫人を含めた旧知の間柄であることが分かります。

沈思の歌聖の絵葉書の宛名面への寄せ書き

1927(昭和2)年12月29日付犀東から平盛へ宛てた手紙では、「今年は図らずも白蓮夫人のご迷惑を相掛、何とも恐縮。歳末に当たり、謹んでお詫び申し上げる」という意味のことを述べています。

これより前の同年8月11日付の手紙では哲が大作を準備していると知らせてきている。犀東が、「沈思の歌聖」の制作過程を把握していることが伺えまる。これらのことから、哲の同郷で、哲の兄平盛と交流のあった犀東が、白蓮をモデルに描くべく紹介したと推定されます。


2019年4月12日金曜日

まずは竹切り 2005年えこナビ2号掲載

レンギョウ

加賀平野が穀倉地帯となったのはいつからだろうか。平野は灌漑なくして水田にはなり得ない。それ以前、水田は水の利のよい山里の谷沿いにあった。金沢市北端の山里のこの地で最近、住宅造成に伴う発掘調査があった。弥生式土器がたくさん出土したそうだが、うなずけるような気がする。言い伝えによれば我が家も平安の昔からこの地に連綿と住み継いでいるそうだ。自然の水の恵みで田畑を耕し、かつ山の幸も利用できる山里は、昔は豊かな地であったのだろう。
我が家でもついこの前まで山の木で燃料をまかなったし、裏山の雑木は十五年に一度ほど河北潟の魚礁として出していた。竹も大事な建築資材、あるいは今ではプラスチックに取って代わってしまったさまざまな生活用品の材料として売れた。コウゾも育て、木の皮を剥いで和紙の原料として出荷した。養蚕を行っていた時代もあったが、止めてからも桑の葉は売れた。今は山の幸は何一つとして糧とならない。無論、植林した杉が売れることもない。
一昨年末帰郷した私達だが、山里の荒れように驚いた。ツタがからまった木は立ち枯れ、熊笹が茂り、竹が山を席巻し、家の周りは鬱蒼としていた。もともと採光の必要などない場所に建てられた我らが住処のこの元土蔵は、一段と厚く竹に囲まれていた。山里暮らしのスタートはまずこの竹切りから始まった。孟宗竹はやけに大きいが、切ること自体は空洞の竹のこと、竹鋸を使えばそんなに大変ではない。けれどその始末が重労働だ。切り倒すとき猫達も総毛立ちでびっくりするほど大きな音で倒れる。
杭を立てた置き場を作り、そこに枝をなたで払った竹を持っていって積み重ねるのだが、太くて長い竹をそこまで運ぶだけでも容易ではない。けれど、こうして整理しながら切り進まないと、切り倒した竹どうしが交錯して、たちまち“竹の海”に溺れてしまって身動きがとれなくなるのだ。重労働のわりには竹は今、使い道がほとんどない。燃すと火力が強過ぎるので薪ストーブの燃料にはならない。竹垣や木々の添え木に多少使えるのみだ。こうして積んでおくしかないのは何とも歯がゆいが、里山の再生には必須だ。
かくしてこの一年、連れ合いはまずせっせと竹切りに励んだ。少しずつ空が見えるようになったり、竹と竹との間から光が射してきたりすると思わず嬉しくなる。先日、これまで竹に埋まってほんの頭しか見えなかった欅が、ついにその全容を表した。それは見事な大欅だった。
こうやって“開墾”したあかつきには、この地域の旧名、花園村の由来の如くサクラ、レンギョウ、梅、桃、水木などの幼木を植え花木の山にできたらいいなと思っている。さらに命長らえることがあるならば、クヌギ、ナラを増やし小動物の生きる昔ながらの山里に戻したいものだ。

シロモジ

シロモジの花
この辺りで4月の初め、桜より少し早くシロモジの黄色の花が咲きます。花自体は小型ですが、木全体に花が付くので、なかなか見事です。幹は暗緑色で、他の木と比べて独特の色です。葉は竹に似ていて、落葉樹なのに冬にならないと落ちません。花が多い分、実もたくさんつき、どんどん広がっていきます。成長も早いようです。竹を倒して広葉樹の森にしようと思いますが、シロモジとかカラスザンショウのような柔らかい木が先に繁茂するので、ナラ、クヌギのような堅いが成長の遅い木が育ちにくい環境になってしまいます。今はシロモジやカラスザンショウを見つけ次第倒し、切株にラウンドアップ2倍液を塗って再生しないようにしています。
竹伐採の後のシロモジの群生
ところで、シロモジはこの辺りでこんなに繁茂しているのに、普通の植物図鑑には載っていません。どうにも分からないのでつてをたどってプロに聞いてみて初めて分かりました。検索では葉の形、幹の色、落葉常緑の区別などの条件を元に探すのですが、紙の本では条件を重ねられません。春の黄色の花、幹の色暗緑色、落葉高木、などと条件を重ねることはデジタルの得意なことです。どなたかこんな植物図鑑を作っていただきたいものです。
シロモジを伐る
シロモジの実

2019年4月8日月曜日

伊東哲の物語5 帰ってきた画

戎克(ジャンク)

北京西部大寧寺 古塔近辺写生
何か一つのことを始めるとする。おぼろげではあるけどその完結に向け、こつこつやっていると、その過程で予期せぬ発見があったり、ハプニングに出会ったりすることがあります。烏山頭ダム工事のタペストリーは発見であり、この戎克(ジャンク)と題する画と、中国で描かれた北京西部大寧寺と題する画が帰ってきたことは、確かにハプニングであった。
 2013年1月、焼津の竹田吉雄さんという和菓子屋さんから電話がかかってきた。「伊東哲さんの画の件でやっとこの電話番号にたどり着いた」とのこと。何のことだろうといぶかしく思った。竹田さんは3年くらい前に島田の骨董屋である絵を買ったそうだ。それが伊東哲の画ではないかという。そして親切なことに我が家まで持ってきてくれたのだ。「なんだか気になる画でずっと出所を探していたが、今日こうしてあるべきところに落ち着いて嬉しい」とまで言うのです。何というハプニングなのでしょう。
それは波立つ海に浮かぶ一艘の小さな船を描いたものです。1931、Itoh Satoshiとあります。裏書は「戎克」昭和九年九月二十八日於淡水作とある。
こつこつと伊東哲の跡を追ってきた私たちにとって、画も描かれた年代も裏書もすべて納得のゆくものです。1930(昭和5年)はタペストリー完成の年で、伊東哲は1934年、まだ台湾で嘉南大圳組合記念塔の壁画を描いていたりします(現時点で記念塔の壁画は確認されていません)。台湾のあちらこちらを巡ったことでしょう。画材をたくさん持っていたわけではありません。数枚の板の表と裏に描いたりしたのでしょう。重ね描きもしたことでしょう。日付や題名が削られたのはきっとそのせいでしょう。なぜこの画が、本人の手を離れ骨董屋などにあったのかは分かりません。台湾で日本人の誰かに上げたものが流れ着いたのかもしれません。いずれにせよ、伊東哲の生家に帰って来たことは奇跡です。大変うれしい出来事でした。
もう一つは最近親戚から帰って来た北京古都の画です。哲の姪(哲の兄平盛の娘で夫の叔母に当たる)は昭和22年に結婚しました。伊東哲は引き揚げて来たばかりで、実家の姪の結婚なのに何もお祝いとして上げるものはなかったようです。それで惜しげもなくあの大事なタペストリーとこの北京で描き、唯一持ち帰ることのできた画をプレゼントしたそうです。裏書は「昭和十九年十月於北京西部大寧寺 古塔近辺写生 伊東哲」。近くから見れば何が描かれているかよく分かりませんが、離れて見ると、ぐっと迫ってきて臨場感溢れる画です。いかにも伊東哲らしい画で、藝大の頃の風景画に比べ、対象の解体度はますます大きくなっています。大雑把に力強く捉えられているのです。美術学校教授でしたから北京でたくさん画を描いたに違いありません。が、引き揚げて来るときにはほとんど持ち帰ることができなかったことでしょう。持ち帰ることのできた画はこの小さな画を含め、あと何枚あるのだろう。貴重な絵が帰ってきて、叔母さんの好意に感謝です。もちろん、ギャラリー唯一の北京での画です(今のところこれ以外に北京での画は確認されていません)。
このようなハプニングはご褒美といえばおこがましいのですが、力づけられる出来事でした。あともう少し続けて、晩年、東金時代の伊東哲まで行ってみたいです。kantoramom記 

2019年4月7日日曜日

伊東哲(さとし)の物語 4  壁掛けが見つかった!

贈呈紀念和蝋描壁掛け嘉南大圳工事模様
物語(3)で2012年9月“台南 ウイークin 金沢”が開催されたことを書いた。この企画は八田與一没後70年を記念するイベントであるが、與一自身に関する遺品は少ない。我が家から、台湾の與一より伊東哲の兄、平盛(夫の祖父)宛ての手紙8通と、伊東哲と刻印されたダム完成記念メダルを提出したが、企画側は“目玉”になる何かを探していた。 
八田與一、台湾、伊東哲。このキーワードで私はひらめいた。1997年に石川県立美術館で開かれた『伊東哲と石川洋画の先駆者たち』展で見た、あの“テーブルクロス”と題されていた不思議な作品が、もしかして台湾を舞台にしたものではないかと。あの“テーブルクロス”は実に変だった。大きめの風呂敷サイズの布に山、川、汽車、パイナップル、ココナツ、椰子の木など南方系の植物、家並み、着物を着た日本の女性が日傘をさして歩いているかと思えば、チャイナ服の男たちが同時に歩いている。哲の夢想の世界かと思った。あの絵が台湾でのダム工事とその町の画なら、すんなり理解できる。私の心の片隅にまだ残っていたあの“テーブルクロス”の違和感が、“目玉”につながった。 
その後、台湾の伊東哲から兄、平盛宛の手紙を読み返した(我が家には古いものがいろいろ残っている!)。何と、哲がその壁掛けを何時、何のために、何枚作ったか、さらにその題名まで書いてある手紙があったのだ。この偶然に画家としての哲の心の叫びを聞いたように思われてならない。手紙にはこうある。 
昭和5年5月29日付け 台南州曾父郡烏山頭より
(略)贈呈紀念品蝋描壁掛嘉南大圳工事模様二十枚去る二十五日を以て完成。約三ヶ月の日数を要しました。内地から連れてきた男には二百円、他には各二十円づつ小生より賞与としてやりました。それぞれ近く帰国引上げののため準備を急いでいる模様です。
(略)一昨年の暮れこんな大きな仕事が私の前途に横たわってゐやうとは神ならぬ身のだれが知っいゐましたでせう。精神的には嘉南大圳五千万円の工事にも劣らざる可(べ)く、物的には一つの画室と二、三年分の私生活のほしょうとでした。神仏のひきあわせとありがたく思ふて居る次第であります。ひいては與一さんの甚大なる伝授、尚ひいてはなくなられた智証さんの御蔭が今日を生んでくれたものと深く心に銘して居ります。(以下略) 
嘉南大圳の工事の様子を描いた蠟けつ染め(先ず蝋液で輪郭を描き、染色してから熱で蝋を落としている。非常に細かく神経を使う作業であったに違いない)であること。工事そのものを絵に落とす際は、哲は與一より”甚大な伝授”を受けていること。幾人もの職人を使い3か月もかけて完成させた哲渾身の大作であったことがうかがえる。贈呈とは、たぶん工事完成に伴い、管理組合への贈呈ということではないか。現に今も嘉南農田水利会が維持管理している。 
パワーショベルが大地を掘っている。蒸気機関車が煙を吐いて土砂を運んでいる。堰堤では落とされた土砂に水が勢いよく放射されている。空(から)になった汽車が去ってゆく。レンガ工場の煙突から壮大な煙が渦巻いて空に舞う。作られたレンガは張り巡らされたロープウェイで山のずっと向こうに運ばれる。曾文渓からの放水口が小さく見える。台南の特徴的な植物、鳥、牛、豚、台湾ザルまで描かれている。たくさんの人々が行きかっている。工事事務所、職員の宿舎、マーケット、風呂屋、小学校、粉屋、クラブなどなどあの時あの場所のありとあらゆる事象が分かりやすく、見やすく、しかも美的に網羅されている。手紙の通り、本当に精魂込めた大作だ。(八田與一から直接伝授受けたダム工事図は正確な記録であるはずだ。) 
いくら絵だからといって、一気に何もかもが分かったわけではない。解読には何人もの人が関わった。80年以上も前の特殊なダム工事の画は、まさに“decode”ともいうべき暗号解読のような作業だった。『台湾を愛した日本人』という本がある。著者は古川勝三さんで、昭和50年代半ば、すでに忘れ去られていた八田與一のことを、赴任先の台湾で一人コツコツ調べ上げて著した。彼は壁掛けを見に飛んでこられた。彼によってずいぶん多くのことが分かった。金沢で長く顕彰活動を続けている中川外司さんと中川耕二さんも加わった。 
夫は壁掛けの拡大写真を作り、一つ一つ番号を打って、その説明を嘉南農田水利会に求めた。“台南 ウイーク in 金沢”直前に、思いがけず顔弘澈という人から実に詳しい解説が帰ってきた。ようやく壁掛けの全貌が見えたのである。八田與一はダム完成後、台北で技術者養成学校を開いたが、顔さんの父はその時の生徒だった。優秀だったらしく、與一も特別に配慮していたようだ。現在92才、ダム管理技術者として43年間、農田水利会に勤務した。顔さんは小さいころいつも父親と船でダム湖に乗り出し、管理の様子を見守ったそうだ。自分や家族の今があるのも、八田技師のお蔭だという。そんな訳で、“台南 ウイーク in 金沢”に間に合わせるため、時間制約の中でできる限りの解読をしてくれたのだ。92歳の父に聞き取りをしたり、自分の小さいころのイメージにも答えがあったようだ。八田技師がダム完成後まとめた『嘉南大圳新設事業概要』という本にもずいぶん助けられたそうだ。 
2013年5月、夫と私は初めて墓前祭ツアーに参加した。もっぱら絵の本物探しや検証の旅だった。伊東哲は対象をよくよく観察してデフォルメしているので一つ一つの特徴がよく分かる。彼の力量を再確認した思いだ。顔さんとも会うことができた。以来交信が続いている。彼は初めて画像データをみて、「これは最も完全な建設記録」だと驚いたという。次世代に伝える義務があるとして、彼は嘉南農田水利会の要請により“語り手のコース”の責任者を引き受けたそうだ。 
実に様々な人たちを巻き込んだ壁掛けである。工事を指揮した技師、工事に携わった労働者、メンテナンスに関わった技術者、記録画にとどめた画家、ほとんどの人たちが亡くなってしまったけれど、このダムは今も台湾の穀倉地帯を支え続けている。このダムの物語はこれからもたくさんの人々を巻き込んでゆくだろう。この壁掛けもきっと分かりやすく魅力的な一枚として耳目を集めるだろう。八田與一記念館で一枚の写真を見つけた。與一、洋装の外代樹夫人、一人置いて背の高い笑顔の哲。なんだか懐かしい人たちに出会ったような気がした。
中央の洋装女婿は外代樹夫人左ワイシャツネクタイ
は與一、外代樹夫人の右二人置いて哲

2013年5月 kantoramom記

付記
嘉南大圳とは台湾南部嘉南平原15万ヘクタールを灌漑する施設のことで、建設当時東洋一の貯水量を有する烏山頭ダムや全長16,000kmにおよぶ給排水路などからなる。これによって不毛の地であった嘉南平原は一大穀倉地帯となった。

伊東哲(さとし)の物語 3 台湾へ渡る

烏山頭ダム工事図  油彩 211x72cm
伊東哲は昭和2年第8回帝展出品作として林の中で詩作に耽る柳原白蓮を描いた。題して“沈思の歌聖”。入選はしたものの、狙っていた特選を逃し、揚句、伊東に対しては売名行為などという嫉妬に近い激しいバッシングを浴びせられた。他との妥協を最も嫌う伊東哲である。芸術においてはなおのこと。彼はついに画壇と決別してしまう。 
長兄平盛は弟哲の再起を願って、親戚であり朋友でもあり学友でもある八田與一に弟のことをしばし託した。当時八田與一はすでに烏山頭ダム工事の責任者として辣腕をふるっていた。八田與一に“招かれた”形で台湾に渡った伊東哲に対し、與一はフランス製の画具を豊富に与え、彼の画業の後押しをした。地理的にも中央画壇から遠く離れ、気候温暖な台湾の地で哲の精神も伸びやかになったようで、このころから彼の作品には、対象への大らかなディフォルメ、あるいは図案化といったものが見られるようになる。 
台湾での作品として、“八田與一像”と”ダム工事図“があり、現在も嘉南農田水利会会長室に飾られているという。その他、オランダ統治時代の楼閣〝赤かん楼”や、“働ける労働者”(未完)などがあるが、持ち帰った作品の多くは東京大空襲で焼けてしまったようだ。 
2012年9月、八田與一没後70年記念として“台南ウイークin 金沢”という金沢・台南の親善行事が開催された。“嘉南大州の父”と称され、台湾の人たちに今も敬愛されている八田與一の遺品と共に、伊東哲の描いた“八田與一像”と“ダム工事図”も里帰りした。特に“ダム工事図”はこれまで門外不出で、小さな写真でしか見ることができなかった。実物は本邦初公開である。 
初めて“ダム工事図”を目の当たりにしてそのスケールの大きさに圧倒された。やがてダムで潤うであろう赤茶けた大地が広がっている。遠景は見渡す限りの地平線と空である。工事現場を中心に何キロに及ぶ景色であろうか(ちなみに完成時の堰堤延長は1273メートルで貯水量世界一という)。こんなに大きな風景画を今まで見たことがない。ドイツから買い入れたという機関車が煙を高く吐きながら、土砂を積んでやって来る。堰堤となるところに後のメンテナンス用のコンクリート筒柱が4,5本そびえたつ。土砂を落とし終えた機関車が、また煙を吐いて小さく去ってゆく。中央手前の丘では人々が手作業で土砂を掻いている。画では人々は芥子粒のような一刷だ。これは、土砂を運び、そこに水をかけ水牛に踏ませて固めるという特異なダム工事(セミハイドロリックフィル工法)の記録画であると共に、あの時代の“証言”的な画でもあると思う。 
ものすごく躍動的なのだ。台湾を統合した日本が、何とか食糧難を排し、富国のため英知を集め一つの目標に向かう。日本人も、日本人となった現地人も力を合わせている。そういう時代の躍動感がおのずと画にも現れ出ているのだ。人々、木々、牛たちのディフォルメ的描写は、その気運にとてもマッチしている。 
これまで伊東哲の代表作は第2回帝展作品“高原”とされてきたが、この“ダム工事図”こそが彼の代表作ではないかと、私は思う。画壇を離れたことで世間の縛りが解け、哲自身の内面の大きさが絵の大きさと重なって見える。1か月後、2枚の画は再び嘉南農田水利会会長室に帰って行った。この催しを機にほとんど原画に近い複製画を、金沢の「ふるさと偉人館」で見ることが出来るようになったことは、幸いなことである。
2013年5月 kantoramom記

2019年4月5日金曜日

国府犀東は花園と関係深かった


 201941日に平成の次の元号が令和と決まったと報道され、年号に注目が集まりました。令和の考案者が誰であるかは厳重に秘密にされていますが、明治から平成までの元号の考案者は明らかになっています。明治の場合は菅原家が提出した複数の案の中から、新天皇がくじを引いて決めたんだそうですね。まだ報道合戦がない時代で、あまり騒がれなかった。大正の場合は内閣書記官室長嘱託の国府種徳(こくぶたねのり)が考案者だそうです。昭和は宮内省の吉田増蔵図書寮編修官の提案10案と国府種徳の5案があり、新天皇が決めたのだそうです。
八幡の親樹は加賀百万石前田候
の参勤交代を何度も見送った
ところで国府種徳についてです。国府種徳の号は犀東(さいとう)で犀川の東という意味で、実家は金沢市竪町といわれています。やはり金沢出身の詩人室生犀星は犀東の向こうを張って、犀川の西、西を星に変えて犀星と名乗ったそうです。犀東は大正、昭和にかけて活躍した宮廷漢詩人で日本各地に漢詩の詩碑があります。
国府犀東は花園村に関係が深かったようです。花園村の二日市と八幡の二つの集落が共同で守っている波自加彌神社について、四編の漢詩を書いています。一編は波自加彌神社の石段脇に石碑となっています。一編は筆者の家に掛け軸になっています。その署名に偶憶故山花園八幡祠舊事 犀東とまるで故郷のように書いています。そのほかの詩にも同様な署名があります。
波自加彌神社には鎌倉時代の作と言われる木造随身像があります。これは能登の彫刻家が二対を作成し、京都の男山八幡宮へ海路運んでいたが、途中河北潟沖で船が動かなくなった。そこで一対を波自加彌神社に奉納したところ動くことができたという伝説があります。その伝説を紹介している北國新聞1940年1月1日の記事の中にこの話は二日市出身の国府犀東が伝えているとあります。
その数年前には波自加彌神社の村社から郷社への昇格運動があり、国府犀東が尽力したことが記録に残っています。
大正という元号を考案した国府犀東が花園村に関係が深かったことが分かります。

2019年4月3日水曜日

桜山に桜を植える

倒した竹を片付けてスペースをつくる
 桜の会の皆さんと初めての桜植樹です。1.5m高さのソメイヨシノを10本植えました。かなり急傾斜の部分と、テラス状になった部分があります。昨年春に倒した竹がテラス状の部分に乱雑に積んであるので、整理して植える場所を作りました。これから夏に向かって、下草刈り、日照が続けば水遣り、害虫が発生すれば防虫など、世話が必要になります。今年は少し訓練を積んで、秋に追加でいろいろな種類の桜を植えようかと話しています。
桜苗を植えて添え木に結ぶ

2019年4月1日月曜日

自利利他の精神 八田與一の信条 4

八田與一

與一は1932年昭和7年にロータリークラブに加入し、入会の挨拶をしました。その時の挨拶の内容が残っています。台湾在住の文筆家片倉佳史氏が発見されたもので、非常に貴重なものと思われます。片倉佳史氏に感謝し、ここに引用すます。

ロータリークラブでの八田與一氏挨拶

     1932年昭和7年1月12日 
私は本夕入会して間も無く非常に愉快な家族会に列席し得ましたことを喜んで居りました。私はこれ迄嘉南大圳の計画をしまして、烏山頭で堰堤工事に従事して居りました。土木工事でやり損った場合には貯水池の決壊程災害の大なるものはありません。斯かる大責任を負わされたものは非常に研究し、且つ考えて、結局人生の問題に迄も立ち入りました。
 人間は何の為に生まれたか、何を為すべきか、動物は子孫の繁殖のため生まれるが、併し人間は夫婦より創り、而も子孫の繁栄を計るには他人即ち社会の繁栄を計らねばなりません。私は真宗の家庭で育ったが、仏教で云ふ自利利他は此のことである事がわかったように思います。
 自利、利他がわかり、差別無差別が真実わかった人が仏であると信ずるようになりました。私は未だロータリー倶楽部の目的は充分わからないが色々な話を承り、ロータリーの精神が自利利他にあるように考えさせられまして、入会させていただきました。


與一は、失敗すれば大災害を起こすかもしれない大工事を大きな責任を感じつつ行ったと言っています。そしてその背景に仏教の自利利他の精神を持って社会の繁栄を計ろうと考えたと述べています。ここでは詳しくは述べていないが、先の手紙に書かれている「一切平等極楽世界を目指す」という内容を踏まえながら話していると思われます。
嘉南大圳の当初計画は、7万ヘクタールの土地を灌漑する案でした。しかし、與一は嘉南平原全体の15万ヘクタール灌漑する案に変更することを提案し、それが最終的に採用されました。嘉南平原で利用できる水の量は、15万ヘクタール全部が同時に稲作をするには足りません。そこで與一は、「三年輪作給水法」を導入しました。農家はある年は稲作を、次の二年は甘蔗やその他の雑作物を耕作し4年目にまた稲作をする。それによって、嘉南平原のすべての農民が等しく恩恵を受けることができました。これも一切平等極楽世界を目指す與一の信念を実現したものではないでしょうか。
與一は仏教に基づき、差別や格差のない世界を目指したいと考えた。これを信念の基本に据えることにより、揺るぎない心でプロジェクトを指揮することができたのだと考えられます。
八田與一の没後七十年を過ぎているが今でも與一は多くの人々に敬愛されている。それは嘉南大圳による豊かな実りの故であるが、その背景にある與一のこのような精神が人々に伝わっているためでもあると思われる。