近年、多くの人たちの努力により、八田與一が台湾で大きな業績を残したことが再発見されてきました。金沢市ではふるさと偉人館に郷土出身の偉人の一人として資料を公開しています。しかし八田與一の若いころのことについてはあまり資料が残っていません。筆者の祖父平盛の日記には親戚でありまた親しい友人である八田與一がしばしば登場します。若いころの八田與一の素顔が少しだけ見えるような気がします。
日記によれば1906年(明治39年)7月に八田與一は平盛ら友人三人と富山県の立山に登山しています。このころの加賀越中の男子にとって、立山登山は一人前の男になるため一度は登っておくことが義務のような面がありました。一行は與一(20歳)第四高等学校学生)、伊東平盛(19歳、前年に一中を卒業して農業に専念)、平盛の弟哲(後の洋画家、15歳、金沢一中生)、及び木谷弥一(18歳、一中生、平盛の母方の従兄弟)の計4人でした。
日記の文章は読みにくいので一部要約しながら現代語にしてみました。
7月11日
八田與一君が来た。立山登山についていろいろ相談した。
7月14日
八田與一君を訪ねた。快談の後太陽(明治28年発刊の総合雑誌)の一巻全部とシルレル物語(シルレルはドイツの詩人シラー)、および滑稽本二冊を借りて帰る。
7月24日
八田君と共に明日立山登山すると約束を交わし、木谷君を誘った。
Heimori Ito (author's grandfather) was a friend and a close relative of Yoichi Hatta. Yoichi sometimes appears in Heimori's diaries. According to Heimori's diary, they climbed Mt.Tateyama in July 1906. The members were Yoichi, Heimori, Satoshi, and Yaichi Kidani who was also their close relative.
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