昔の花園八幡想像図 |
現在花園八幡町3班から6班となっている団地を造成したとき、その一部を金沢市が発掘調査しました。その結果、今の地面より1.5mくらい下に弥生時代(1800年くらい前)から鎌倉時代にかけて、人が生活した跡が見つかりました。河北潟は今よりずっと近くまで入っていて、米だけでなく湖の産物も山の産物も得られ、住みよいところだったのでしょう。
住居があった
一辺3m位の四角形の四隅に穴があり、その底に木が一部残っていました。これは建物の柱の跡で住居があったと思われます。土器も出てきました。
出土した土器の一部 |
鉄くずがたくさん出てきました。また、高い温度で鉄を柔らかくするために炭火に空気を送り込む「ふいご」の一部も出ました。奈良時代には鍛冶屋(かじや)があったと思われます。米作りのための鍬(くわ)や鎌(かま)など鉄の刃物を作ったのでしょう。
鍬などの農具や刀、舟などの形を木で作ったものや壊れていない土器が一か所にまとまってたくさん埋められていました。お祭りをして健康や豊作を祈ったのかもしれません。今と変わりませんね。
資料 金沢市文化財紀要241 石川県金沢市花園八幡遺跡 平成19(2007)年
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