2022年2月14日月曜日

「1930・台湾烏山頭」出版

 台湾の台南市から「1930・台湾烏山頭」という本が刊行されました。

去る2020年は金沢市出身の土木技術者八田與一が、日本統治下の台湾で嘉南大圳という大規模な灌漑施設建設に着工して100年になります。これを記念して台南市ではいくつかの事業を行いましたが、その一つとして青少年向けに「1930・烏山頭」という本を出版しました。画家伊東哲は八田與一に招かれ、嘉南大圳建設記録画を作成しました。「1930・烏山頭」はその工事の様子や、若い八田與一と伊東哲が立ち向かった困難や成長を分かりやすく絵物語にしたものです。

表紙 左から八田與一、水の女神、伊東哲
伊東哲についての多くの資料が伊東家に残されていました。中でも、2012年に発見された「蝋描壁掛嘉南大圳工事模様」は伊東哲が工事や人々の様子、台南の風物をろうけつ染めで俯瞰的に描いたものです。台湾の人たちはこの壁掛けにとても感動と親しみを覚えたようで、多くの反響がありました。台南市はこの絵を用いて、歩きながら工事の世界に入り込んで当時を体験できるという教育施設を開設し、本年115日より公開しています。また台南市は「1930・烏山頭」の日本語版「1930・台湾烏山頭」を出版し金沢市の公立学校へ寄贈しました。

この本には伊東兄弟と八田家の兄弟の交流、八田與一の言葉、この壁掛けの発見の経緯も書かれています。本文絵物語の作者謝金魚さんの伊東家訪問記なども載っています。
激動の時代、苦難の人生を送った伊東哲の画業全体についても紹介しています。



2022年2月9日水曜日

花園村の人 野口吉次郎

 野口吉次郎

二日市ト8番地西川善兵衛の四男で、安政31856)年76日生まれ。現在(大正)北海道小樽区稲穂町62番地において酒造業を営んでいる。氏は堅忍不抜剛毅の精神に富み、労を惜しまず、7歳で大根布の茶谷家の養子となった。4,5年で実家に戻り其の後いろいろと奉公に出た。その間に醤油の醸造法を習得し、24歳の時金沢市の野口家の養子となった。その後家業に失敗し財産を総て失い、31歳の冬に困難の中家族とともに北海道へ渡って滋賀県出身の呉服店石橋彦三郎に雇われた。困難と貧苦に耐えながら働き、主人に醤油醸造を提案して採用されて企業化し多大の利益を上げた。主人の信頼が厚く、遂に独立して醸造業を営み今日の境遇となりその資産は数百万円にも達するという。

野口吉次郎氏
(ウイキペディアより)

氏が石橋氏に雇われたとき、給料を受け取らず3年間の間、僅かに36銭の古単衣で勤めたという。石橋氏は常々「野口氏には善行善談甚だ多く、自分の手帳に書き留めただけでも36回もあった」と語っていた。これでも野口氏が如何に格勤精勤仕えたかが分かる。石橋氏が緑綬褒章を受けたのは主として野口氏の力によるものである。

野口氏の今日の醸造高3,200石、さらに旭川合資会社等関連酒造を合算すればその高7,000石であるという。金沢市彦三一番丁に広大な別邸を構えて、時折金沢に帰ることがあるという。

この文章は大正年間刊行の「花園村史」本村出身の名高き奮闘家 から採ったもので、現代語にしてあります。

このブログの「はなぞのやわた6 謝恩詩碑」の項に、野口氏が故郷の波自加彌神社に多額の寄付をしたことが載せてあります。


2022年2月8日火曜日

花園村の人 三角風蔵

 

1960年ころの二日市

花園村の人

三角風蔵(みすみふうぞう)

三角風蔵通称庄右衛門。二日市の農業池田又三郎の次男、天明41784)年生まれ。文化年間(18041817)に加賀藩の割場(足軽、小者を警備、掃除などに手配する役所)付の小者となり、しばしば江戸へ行き来した。当時本多利明が本郷の加賀藩邸(現在は東京大学になっている)の傍らで航海、測量、天文学を教授していたが、庄右衛門はここで測量を学んだ。任務が終わって帰郷する際に旅費が足りなかったが、同僚達が寄付してくれた。庄右衛門はこの内の少額を旅費とし残りで測量器を買って帰った。後に遠藤高璟が齊廣(18021822まで11代加賀藩主であった前田齊廣(なりなが)と思われる)に推薦し、齊廣はしばしば庄右衛門の操る風砲射術)を視察し、三角風蔵の名前を与えた。金沢市街の測量を命ぜられ、その図は極めて精緻だった。また、また藩内の鉱山を測量した。明治元年42485歳で没した。

上記は「花園村史 本村出身の名高き奮闘家」 を現代語訳したものです。農家の出身者で加賀藩の下働きに採用された者が、藩主からその才能を認められて名前も与えられたようです。

尚、逗子開成中学校生徒のボート遭難事件の慰霊祭で歌われた「七里ガ浜哀歌 真白き富士の根」の作詞者三角錫子は三角風蔵の長女である。