1960年ころの二日市 |
花園村の人
三角風蔵(みすみふうぞう)
三角風蔵通称庄右衛門。二日市の農業池田又三郎の次男、天明4(1784)年生まれ。文化年間(1804~1817)に加賀藩の割場(足軽、小者を警備、掃除などに手配する役所)付の小者となり、しばしば江戸へ行き来した。当時本多利明が本郷の加賀藩邸(現在は東京大学になっている)の傍らで航海、測量、天文学を教授していたが、庄右衛門はここで測量を学んだ。任務が終わって帰郷する際に旅費が足りなかったが、同僚達が寄付してくれた。庄右衛門はこの内の少額を旅費とし残りで測量器を買って帰った。後に遠藤高璟が齊廣(1802~1822まで11代加賀藩主であった前田齊廣(なりなが)と思われる)に推薦し、齊廣はしばしば庄右衛門の操る風砲射術)を視察し、三角風蔵の名前を与えた。金沢市街の測量を命ぜられ、その図は極めて精緻だった。また、また藩内の鉱山を測量した。明治元年4月24日85歳で没した。
上記は「花園村史 本村出身の名高き奮闘家」 を現代語訳したものです。農家の出身者で加賀藩の下働きに採用された者が、藩主からその才能を認められて名前も与えられたようです。
尚、逗子開成中学校生徒のボート遭難事件の慰霊祭で歌われた「七里ガ浜哀歌 真白き富士の根」の作詞者三角錫子は三角風蔵の長女である。
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