善照坊 |
(花園小学校120年記念誌 善照坊の項 続き
加賀一向一揆が壊滅した天正8年(1580)、能登輪島崎に亡命し、寛永元年(1624)に金沢公儀町(現高儀町、現在は長土塀)の現在地に移ったと伝える(貞享2年自社由緒書上)。
輪島市善竜寺には、善照坊所蔵のものと同寸法で、明応7年の同内容の裏書の写しを有する親鸞蓮如連座像がある。しかし、貞享2年(1685)、善照坊証口が専光寺へ差し出した四尊裏書御絵伝裏書等写之覚(前掲留之帳)によれば、聖徳太子絵像と七高僧絵像は、慶長15年(1610)本願寺教如が、吉藤専光寺門徒大野庄吉藤村善照坊の玄浄に下付したものであり、また寛永17年の本願寺御印書写(専光寺文書)は吉藤専光寺下加州大野庄吉藤村の善照坊証玄に宛てられており、慶長―寛永のころには吉藤村に所在したことがわかる。
金沢移転が最初に確認されるのは寛文元年(1668)の本願寺御印書写(同文書)で、「加州石川郡金沢善照坊照恵」に宛てられていることから貞享2年の書上という寛永元年移転説は寛文元年の誤伝とも考えられよう。
本願寺の東西分派の際、教如派に属し東方となったが、「亀の尾の記」によると享和年中(1801~04)、あるいは寺伝によると寛政9年(1797)西方に転派し現在に至る。
近世は親鸞蓮如連座像が「二尊仏」として著名になり、当坊の代名詞となった。
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