2023年4月18日火曜日

善照坊由来記(高儀町版)

 善照坊は尾山落城の後輪島へ亡命します。その後許されて金沢の公儀町で寺を建てました。公儀町の名は、おそらく幕府への配慮から高儀町と変わりました。近年になって町名は長土塀に替わりましたが、善照坊の場所はそのままです。下記の善照坊由来記は善照坊の高儀町時代のもので、その後長土塀時代になって公開されている善照坊由来記抜粋(花園村春秋    Hanazono Village : 善照坊は波自加彌神社の社僧だった (yawatayama.blogspot.com)とは少し内容が異なります。波自加彌神社の社僧であったことに全く触れていません。その時代の何かの事情があったのでしょう。ただ、蓮如上人が一泊して教えを受けたという話は本当かもしれません。別の資料にそのようなことが書かれています。


善照坊由来記

抑もそも当寺開基は聖武天皇天平年中の頃に至りて泰澄大師越前越智山より出で給い諸寺諸山を開闢せし時常随の高弟にして禅覚法卯真言法脈を伝えて石川郡大野庄吉藤の里に一宇を建立して浄経坊と名く己来三十一代真言宗を総承す然るに文明年中に至りて真宗本願寺第八代蓮如上人北國御巡化の折節一夜の宿を浄経坊に請い給う故に当時の阿闍梨円乗速やかにお宿を申せし処幸いに上人は真宗念仏他力易行のことはりをねんごろに説き給えしに直ちに上人の教化に信順して遂に真言宗を改めて浄土真宗となりその時上人自らを浄経坊を善照坊と寺号を改めさせられ円乗を證賢と名付けさせられその後上人尾山城本丸に本源寺再興せられし時證賢は本源寺を守護し寒暑を問わず伺候して上人の教化を助け常随のお弟子となり日夜浄土真宗発展の伝道に力を尽せりまた上人御歳八十四歳にしてお病気御見舞い看護せし時上人御形見として一尊の御影を御自書ありて授けしめ給うにより世には伝えて善照坊二尊仏と称せり

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