2023年4月5日水曜日

波自加彌神社と善照坊(3)

 

かつて宮腰港があった

下記の小文は花園小学校120周年記念誌の中にある、」善照坊についての、」記述である。 

「善照坊 現金沢市長土塀2丁目

吉藤山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。二尊仏と通称される。

寺伝によれば、開祖円乗はもと河北郡八幡村の真言僧で浄経坊と号したが、文明年中(146987)蓮如の北國巡錫の際真宗に改宗し、石川郡吉藤村に居を定めたという。

明応7年(1497428日、同軍大野庄吉藤専光寺門徒証賢が、蓮如から親鸞蓮如連座像を下付されており(専光寺文書)、当寺専光寺の門徒であったことがうかがえる。享禄の錯乱において同寺とともに加州三カ寺派に属して敗北し、門徒は本願寺の直参になったものと思われる。

「天文日記」によれば、天文12年(1543614日直参「前善照坊下」の河北郡浅野谷(現津幡町浅谷)の祐道が本願寺の御堂当番(30日番衆)として上番しており、続いて同161218日には直参衆「前善照坊下」石川郡赤土の正誓、また同21717日には加州直参衆「前善照坊下」河北郡二日市の道念が上番している。」

小学校の記念誌というより歴史書のような記述であるが、善照坊についての重要な内容が含まれる。ここでは善照坊が専光寺門徒とされ、享禄の錯乱(大小一揆)でも専光寺に加担していたことが記されている。善照坊は吉藤村に開基されたが、専光寺が吉藤専光寺とも言われるように専光寺の一部であった可能性は高い。善照坊は享禄の錯乱で敗れ、多くの門徒が本願寺直轄となった。その中に河北郡浅野谷の祐道、石川郡赤土の正誓、河北郡二日市の道念がいたことが分かる。赤土は吉藤村に近く、浅野谷、二日市は共に河北潟東岸に位置する。善照坊の三道場は八幡、百坂、鷺森でこれに赤土、浅野谷、二日市を加えると宮腰から河北潟東岸に勢力を持っていたことになる。これらをもってしても八幡にいたはずの浄経坊が蓮如の北國布教の折ににわかに河北潟に大きな勢力を築いたとは考えにくい。宮腰に大きな勢力を持っていた専光寺の一翼として、河北潟水運に関係していたと考えたい。

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