2023年3月11日土曜日

波自加彌神社の創建

田近彰男著 波自加彌神社誌(昭和40,1965年刊)には次のような記述があります。原文は漢字交じりカタカナ古文で読みにくいので、わかる範囲で現代文に訳してあります。

「護国山縁起書」として次の記載がある。

そもそも正八幡宮波自加彌神社と申し奉る宮の謂れは下記のごとくである。

44代元正天皇(715724)の御代、養老元(717)年315日夕方、この村の東方の空中に大きな火球が輝き人々が驚き恐れたが、しばらくして山頂に落ちて消失した。その後度々その周辺の波自加彌(山椒?)から黒雲が立ち上り、また風雨が吹き荒れることがあったので、人々はあの光の玉の所為ではないかと恐れて近づく者はいなかった。泰澄大師がこのことを伝え聞き、翌年413日にここへ来られたところ、丁度黒雲が立ち上り、急に風雨が強まった。大師がそこで「どのような神様ですか、お姿を現し下さい」と熱心に祈られたところ、風雨が次第に収まり、五色の雲が上り、その内側に金色の身に甲冑を帯び手には弓矢を携えた一人の老人が現れた。そして厳然と「私は竹内宿祢の神霊である。昨年光を放って現れたのは16代誉田天皇(応神天皇)が人々を憐み、ここへ垂迹(現れ)されたので、私もまたお守りしているのだ。しかし我らは西方に本国がある。」と宣べて弓矢を残して消えた。そこで大師はこの「お告げ」を伝え、仮に神社を建て弓矢を奉納しまた仏像を彫刻して納め深く尊崇すべきと述べた。人々は安心し喜んで、この神社を波自加彌神社とした。その後、大師が亡くなったとき、天皇はこのことを聞き、堂塔および坊舎を作ることを命じ、神田を寄付し、山を護国山、山頂を天皇、前に流れる川を手洗川と名づけた。延喜式に出ているのはこの神社である。 

2023年2月27日月曜日

月影式土器

 

この土器は金沢市鞍月から出土した弥生時代末期の土器で、その首のあたりの特徴から月影式土器と呼ばれる形をしています。金沢市埋蔵文化財センターに展示されています。花園八幡から数百メータくらいしか離れていない月影集落でみつかった月影遺跡でこの形式の土器が最初に発見されたので「月影式土器」の名前を付けられました。

ところで、花園八幡遺跡から多数の土器が出土していますが、月影式土器は見つかっていないそうです。こんな近い集落なのに何故かと気になります。

実は月影式土器はかなり広範囲に分布していて、山陰地方がそのオリジンではないかというコメントもあります。月影式土器は月影周辺で作られたのではなく、どこかで作られ、月影に運ばれてきたものかもしれません。花園八幡遺跡は弥生時代から古墳、平安、鎌倉時代まで、続いていましたので、月影遺跡ができたころにも人々の活動があったはずです。花園八幡遺跡の弥生式土器はその近辺で制作されていたので、あまり月影式土器に対するニーズがなかったのかもしれません。

2023年2月25日土曜日

須恵器

 家の横の畑でこんなものを見つけました。金沢市埋蔵文化財センターでみてもらったところ、奈良時代ころの須恵器だそうです。隣の集落の今町の遺跡からも須恵器が見つかっています。この家は平地から少し谷へ入ったところにあります。平地は最近まで田んぼ(今は住宅地)でしたが、弥生時代には住居がありました。何度か洪水などがあった後、平地の部分は田んぼにして、住居は谷へ移したのかもしれません。


加賀朝日縄文遺跡

旧花園村は河北潟に連なる平野と、越中との国境の低い山地にまたがっている。縄文海進のころは今の平地の部分は海であったと思われる。縄文時代には今の山地に人が住んでいた ので花園村にも遺跡が見つかっている。加賀朝日遺跡は現在の加賀朝日町の旧朝日小学校のある高台の下の畑から発見された縄文中期の遺跡である。

磨製石器と土器が多数発掘されたが、まだ発掘されていないところが残っているようだ。

写真は花園公民館1999年刊「花園に生きる」から引用した。発掘には金沢市や森本町、森本中学校などと共に、波自加彌神社宮司の田近彰男さんが参加された。多分その関係で、一部が波自加彌神社に保管されているのだと思われる。

縄文海進が終わり、海が引いて現れた平地で弥生人が稲作を始めた。花園村には月影遺跡や花園八幡遺跡などの弥生時代の遺跡がある。

2022年11月23日水曜日

初めての花見

 花園八幡の山に桜を植え始めて初めての花見です。まだ、若木にチラホラ咲いている程度なので有志数名での花見でした。後方の大きな桜は、もともとこの山に自生していた山桜です。





若いながらベニシダレはきれいな花を咲かせていました。

2022年3月14日月曜日

桜山2022年

記念撮影
ヒガンザクラの苗を植える
 3月13日、ようやく雪が消えて山の仕事ができるようになりました。昨年秋に切り倒した楢などの老木の片づけをしました。太い幹部分は薪に、中ぐらいはシイタケの榾木に、細く真っすぐな部分は杭の材料にします。拓いた部分にヒガンザクラの苗を植えました。

植え始めてまだ3年ですが、チラホラ咲くのではと期待しています。花見ができたらいいですね。


片付け作業



2022年3月5日土曜日

はなぞのやわた 8 源平の戦とやわた

令和4年のNHK大河ドラマは「鎌倉殿の13人」で、源平の戦が出てきます。八幡には源平の戦に関する言い伝えが三つあります。

①波自加彌神社(正八幡宮) ②太郎兵衛谷内(たろべやち) ③昔の波自加彌神社   ④八幡四坊高坂道(推定)

1.     源氏の木曽義仲が波自加彌神社に戦勝を祈願して「中脂矢根」を奉納、戦いに勝利した後「正八幡宮」の額を奉納した。(はじかみ通信より)

中脂矢根
(はじかみ通信より)
矢根とは矢じりの事

2.     平家の武将であった太郎兵衛は戦に負けて、太郎兵衛谷内に隠れ住んだ。後に今の二日市に移って二日市の街をはじめた。現在は南森本にお住いの建具屋の長澤さんは太郎兵衛の子孫だそうです。

3.     波自加彌神社は奈良時代の創建で、初め四坊高坂にあったが源平の戦で社殿が焼け、八幡の正八幡宮に避難した。現在も八幡山に正八幡と波自加彌神が同居している。

 ④昔は四坊高坂と八幡の間には道があり、往来できたそうです。

木曽義仲が正八幡宮の額を奉納したということは、義仲が祈願したのは四坊高坂の波自加彌神社ではなく八幡の正八幡宮の方だったのかもしれませんね。