田近彰男著 波自加彌神社誌(昭和40,1965年刊)には次のような記述があります。原文は漢字交じりカタカナ古文で読みにくいので、わかる範囲で現代文に訳してあります。
「護国山縁起書」として次の記載がある。
そもそも正八幡宮波自加彌神社と申し奉る宮の謂れは下記のごとくである。
第44代元正天皇(715~724)の御代、養老元(717)年3月15日夕方、この村の東方の空中に大きな火球が輝き人々が驚き恐れたが、しばらくして山頂に落ちて消失した。その後度々その周辺の波自加彌(山椒?)から黒雲が立ち上り、また風雨が吹き荒れることがあったので、人々はあの光の玉の所為ではないかと恐れて近づく者はいなかった。泰澄大師がこのことを伝え聞き、翌年4月13日にここへ来られたところ、丁度黒雲が立ち上り、急に風雨が強まった。大師がそこで「どのような神様ですか、お姿を現し下さい」と熱心に祈られたところ、風雨が次第に収まり、五色の雲が上り、その内側に金色の身に甲冑を帯び手には弓矢を携えた一人の老人が現れた。そして厳然と「私は竹内宿祢の神霊である。昨年光を放って現れたのは16代誉田天皇(応神天皇)が人々を憐み、ここへ垂迹(現れ)されたので、私もまたお守りしているのだ。しかし我らは西方に本国がある。」と宣べて弓矢を残して消えた。そこで大師はこの「お告げ」を伝え、仮に神社を建て弓矢を奉納しまた仏像を彫刻して納め深く尊崇すべきと述べた。人々は安心し喜んで、この神社を波自加彌神社とした。その後、大師が亡くなったとき、天皇はこのことを聞き、堂塔および坊舎を作ることを命じ、神田を寄付し、山を護国山、山頂を天皇、前に流れる川を手洗川と名づけた。延喜式に出ているのはこの神社である。
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