2020年10月5日月曜日

はなぞのやわた4

 

八幡のお地蔵さん

お地蔵さんは子供を守ってくれる


昔話にお地蔵さんがよくでてきます。お地蔵さんは神様や仏様に比べて身近にいて、あまりうるさいことを言わずにやさしく願いを聞き、弱いもの特に子供たちを見守ってくれるそうです。八幡にもお地蔵さんがいます。

 

波自加彌神社の旧参道脇に立っています








お地蔵さんは 波自加彌神社の旧参道の登り口脇に立っています。波自加彌神社の石段の参道は今から85年ほど前に作られました。それまでは下の写真の赤い点線で示し


た細い道を上りました。この道の右(東)側は薬師といいます。薬師堂があったのでしょうか。古墳時代のお墓と言われている八幡薬師横穴と八幡波自加彌神社横穴もこのあたりにあります。お地蔵さんは神様や仏様のいる領域の入り口を守っているのかもしれません。

 

子供たちのお盆の行事でした

八幡のお地蔵さんは福井の笏谷石(しゃくだにいし)を彫ったものです。いつごろからあるのか分かりません。時々誰かがお花や果物をお供えしています。


少し前までお盆の815日の夜には子供たちが集まって、ろうそくに火を灯し、お菓子を食べたり花火をしたりして過ごしました。今はそんな行事はやらなくなりましたが、お地蔵さんが子供たちを守ってくれると言われていることと関係があるのでしょうね。右の写真のようなお盆の飾りつけは毎年1班の中佐正義さんがやって下さっています。

 

2020年9月6日日曜日

河原市用水

江戸時代に作られた農業用水です

河原市用水は江戸時代につくられた農業用灌漑(かんがい)設備です。水田で米を作るためには大量の水が必要で、昔から水争いが絶えませんでした。そこで森本川の水を北森本の河原市で取水し、森本から津幡までの広い地域の田んぼに供給するための用水、河原市用水が作られました。加賀藩からの援助もありました。

          瑞孤橋

 白狐伝説

工事を指揮したのは中橋村(現津幡町)十村(とむら=村長)の久左衛門でした。土木技術に詳しくまた政治力もあって加賀藩の役職についたこともある人だったようです。しかし取水口と最終の出口の間の落差が小さいため、難工事でした。ルートに悩んでいた時、波自加彌神社に祈ったところ、ある雪の降った夜に白い狐が歩いていく夢をみました。雪の上に残ったその足跡をたどって用水を掘ったところ、うまくいったという伝説があります。波自加彌神社の鳥居の前で用水を渡る石の橋はこの伝説にちなんで瑞孤(ずいこ=めでたいきつね)橋と名づけられました。

水源は医王山

用水の水源は森本川ですが、その森本川の水源は医王山です。森本川の洪水を防ぎ安定して水を供給するため、2001年に二俣に医王ダムが完成しました。河原市用水は現在、不動寺町に取水口があり、津幡町加賀爪で津幡川に放水、その間の約300ヘクタールに水を供給しています。昔は土の土手で子供が水遊びをしたりしましたが、今はコンクリートの壁になりました。遊歩道もつくられましたが、落ちると危険ですから注意してください。

 河原市用水土地改良区 

6班に管理事務所があります。ここでは全部の水門と取水口の集中管理をしています。各水門にはカメラがあって画面でモニターしながら遠隔操作で水門の開閉ができます。ただ、台風や大雨など緊急時には今井さんが現場まで行って対応するそうです。  




 

2020年7月25日土曜日

土器「𤭯(はそう)」

はそう
花園八幡遺跡から発掘された古墳時代の土器です。この土器の名前は「はそう」といいます。漢字では𤭯。名前がわかっているのに用途がはっきりしていないようです。液を入れる容器のように見えます。胴体の真ん中に穴が開いていて竹筒を差し込んで液を注いだという説があります。実用品ではなく祭祀に使われたという説もあります。「はそう」は全国の古墳時代の遺跡から出土します。だから何か意味のあるものだったのでしょう。この地にも共通の文化が伝わっていたんですね。花園八幡遺跡では祭祀に使われたと思われる剣型や舟型の木製品と同じ場所で見つかりました。この遺跡からは「はそう」祭器説になりますね。この写真は金沢市埋蔵文化財センターで、花園八幡遺跡についてお話を伺った際に撮りました。

2020年7月15日水曜日

はなぞのやわた2


昔の花園八幡想像図

弥生時代から人が住んでいました

現在花園八幡町3班から6班となっている団地を造成したとき、その一部を金沢市が発掘調査しました。その結果、今の地面より1.5mくらい下に弥生時代(1800年くらい前)から鎌倉時代にかけて、人が生活した跡が見つかりました。河北潟は今よりずっと近くまで入っていて、米だけでなく湖の産物も山の産物も得られ、住みよいところだったのでしょう。 

住居があった

一辺3m位の四角形の四隅に穴があり、その底に木が一部残っていました。これは建物の柱の跡で住居があったと思われます。土器も出てきました。

出土した土器の一部

 鍛冶屋があった

鉄くずがたくさん出てきました。また、高い温度で鉄を柔らかくするために炭火に空気を送り込む「ふいご」の一部も出ました。奈良時代には鍛冶屋(かじや)があったと思われます。米作りのための鍬(くわ)や鎌(かま)など鉄の刃物を作ったのでしょう。

 お祭りの跡があった

鍬などの農具や刀、舟などの形を木で作ったものや壊れていない土器が一か所にまとまってたくさん埋められていました。お祭りをして健康や豊作を祈ったのかもしれません。今と変わりませんね。

資料 金沢市文化財紀要241 石川県金沢市花園八幡遺跡 平成192007)年


2020年7月10日金曜日

はなぞのやわた 1

「はなぞのやわた」のページでは特に花園八幡町内の皆さんに向けてこの町の地名や旧跡などを紹介していきます。その第1回目です。

なぜ花園八幡町という町名なのか

私たちの町名は花園八幡町です。4文字もある長い名前です。手紙や書類に住所を書くときに面倒だなと思いませんか。今町の今なんて1文字4画です。花園八幡の画数を数えてみてください。どうしてこんな町名になったかご存知ですか。

千年ほど昔、多分平安時代にこの辺りには京都の男山八幡宮(石清水八幡宮)の荘園があったと言われています。だから荘園の中にあった神社は八幡宮です。今、波自加彌神社のある山は八幡山といいますが、ここにその八幡宮があり、その宮下の集落は八幡村だったのです。

 なぜ八幡宮ではなく波自加彌神社なのか

昔々波自加彌神社は今町から登る山の上の四坊高坂にありました。ところが源平合戦で社殿が焼けてしまい、やむなく八幡の八幡宮に間借りさせてもらうことになったのです。それ以後八幡山に八幡宮と波自加彌神社が同居しているのです。秋祭りには1班の伊東家の庭に祭旗を立てますが、「正八幡宮祭礼 文久二年(1862)八幡村若連中」と書いてあります。江戸時代までは八幡社でもあったのです。波自加彌神社の名前が平安時代の神社名簿に出ているので、この方が古いようだから波自加彌神社の方を名のることになったようです。

 花園八幡町になった

江戸時代の村は小さく、ここは八幡村だったのですが、明治になって新しい町村制ができ、今町や二日市、岸川、利屋町などとまとめて花園村になりました。地名は河北郡花園村字八幡でした。

昭和291954)年町村合併で河北郡森本町字八幡になりました。

昭和371962)年森本町が金沢市に編入合併となった際、馬場校下に八幡町があったため、花園八幡町になりました。

 「やわた」か「やはた」か

八幡のついた市町村は全国にあります。読み方はやはた、やわた、はちまんといろいろです。元々の意味は八つの旗(=幡)ですからやはたが正式のようですが、この辺りでは昔からやわたと言っていました。だからこの文のタイトルもはなぞのやわたとしました。


2020年7月7日火曜日

はなぞのやわた絵図

花園八幡町の絵図です。この町の山や谷の名前、旧跡などをこの絵図に沿って紹介していこうと思っています。

2020年2月13日木曜日

キツネ Fox

ホンドキツネ
里山を題材としたkantoramomの作品です。