古代の河北潟 |
浄経坊(後の善照坊)は波自加彌神社の真言宗の社僧として務めていたが、32代円乗のとき蓮如上人の浄土真宗に帰依、吉藤村に善照坊を開基したとされている。善照坊には八幡、百坂、鷺ノ森に道場があったという。
蓮如上人北國布教まで八幡にいたはずの円乗がかなり遠く離れた吉藤村に寺を構えることができたのは何故か、そして八幡の外に百坂、鷺ノ森に道場を設けることができたのは何故か。
古代の河北潟図は平川南著 日本の原像(2008年小学館)より転載した。
現在の金石本町あたりに古代の港があり、渤海使を迎える館や官庁があった。弘仁14(823)年加賀国が越前国から分離されたとき、国府は当初このあたりにあったという説もある。図の左下のあたりは宮腰と呼ばれた古代から中世にかけての港があり、平安時代には北加賀で大きな勢力を持っていた「道の君」の居館があった所と推定されている。
吉藤村は現在の専光寺町で、浄土真宗の極めて有力な寺院専光寺(吉藤専光寺)があった。専光寺は現在金沢市本町にあるが、おそらく前田藩からの指示で移動したと思われる。中世には大型船もあって、加賀の米は宮腰から敦賀まで船便、敦賀から陸を通ってまた琵琶湖から船で都まで運ばれた。宮腰のすぐ北には大野の港があり、河北潟を通して北加賀や越中と物資が運ばれた。港は輸送の拠点であり、支配者にとっては重要な収入源でもあった。専光寺周辺には富や人の集積があったものと思われる。鷺森は吉藤村に隣接しており、このような物流に関わっていた可能性がある。
百坂の西には現在も蓮根田が広がり、北は吉原(もちろん葦の原)であって、湿地帯の山側であった。河北潟の水運は百坂まであったかもしれない。吉原から越中へ物資を運ぶ小原越えの起点でもあった。八幡は同じく越中への脇道である田近越えの中間点四坊高坂への近道があり、すぐ隣の二日市まで河北潟への水路があった。
百坂道場主と鷺森道場主は共に五十嵐家で、両五十嵐家は何らかの関係があったと思われる。善照坊と五十嵐家は蓮如以前から有力な物流勢力を築いていたのではなかろうか。善照坊が吉藤村に開基できたのは五十嵐家の力かもしれない。
善照坊は1488年の一向一揆の後の後1531年の大小一揆に小一揆側で参戦して敗れ、多くの門徒を失った。ということはそれまでは多くの門徒のいる有力な勢力だったことを示す。さらに1582年尾山御坊の落城の際、一揆方の代表の一人として名前が出てくる。善照坊は一人の僧侶というよりはかなり宗教的権威も兼ねる有力な豪族であったのではなかろうか。
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