善照坊とその三道場 |
善照坊は浄土真宗本願寺派に属する寺院で、現在は金沢市長土塀にあります。花園八幡には善照坊の門徒が6軒あります。その謂れは、下記の善照坊由来記抜粋 で推定できます。
抑もそも当寺開基は、聖武天皇天平年中のころ、泰澄大師越前越路山より出でたまい、諸寺諸山を開闢せし時、常随の高弟にして禅覚法卯真言法脉(みゃく)を伝え、その後河北郡八幡村波自加彌神社(養老2年、718年鎮座)の社僧として代々致仕す。
31代浄経坊円乗師の代、文明7(1475)年本願寺第八代蓮如上人、北國巡化の折、改宗帰依し、翌文明8年3月28日、方便法身尊形の一軸を賜り、加州石川郡大野庄吉藤村に一寺を建立、寺号を善照坊と改む。
●長享2(1488)年加賀一向一揆に参加、富樫政親を敗死せしむ。
●明応7(1498)年蓮如上人御年84歳、御病気御見舞いに参上、上人御形見として二尊連座の御影を授かる。
当寺三道場あり。
●八幡道場 伊東平右衛門
●百坂道場 五十嵐教西
鷺森道場 五十嵐東守了善
お礼上洛の折、三道場主に、余絹も三幅の六字の名号を賜る。
●明応9(1500)年円乗師62歳にて示寂す。
●天文6(1537)年加賀国の大小一揆の乱に小一揆側に参加敗れ、門徒は本願寺の直参として、とりあげらる。善照坊の名、この時はじめて史書(證如上人、天文日記)に現る。
天文3(1575)年上杉謙信、能登侵入の折、亀田隼人、洲崎兵庫等と迎え撃ち敗走さす。
●天正8(1580)一向一揆が加賀の国を百年余り支配せし時、尾山御坊内に坊官として参与す。後、柴田勝家、佐久間盛政に攻撃を受け落城の折、降伏の代表として、本誓寺、広済寺、恵林坊と共に名を連ね、その後輪島に潜居す。
●寛永元(1624)年戦乱収まり、前田氏の治世となり、金沢市高儀町無番地(現在地)へ移る。
●寛政9(1797)年故あって東派より西派に転派、門徒の大部分が離散、大部分は東別院の預かりとなり現在に至る。
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