花園の文化財、宝
誓入寺の釈迦像
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誓入寺の釈迦像 |
二日市町の誓入寺本堂南側に小さな経蔵があって中に高さ2メートルほどの6面の棚が納められています。この棚は回転式で、一回りさせると全部の経典を読んだことになるのだそうで、今の大人の人達は子供のころに中へ入って回転させて遊んだそうです。棚の一面に右の様な高さ5センチの仏像が鎮座しています。この仏像は明治維新の廃仏毀釈の際に、今の波自加彌神社にあったものを誓入寺に移したと伝えられています。その時に腕から手の部分と頭の神の部分を改造されたそうです。昭和16(1941)年の「石川県神社仏閣古美術概観」では体格、衣文、胸飾から平安初期の彫刻で、波自加彌神社の本地仏であったと推定しています。
この仏像には次のような物語があったと思われます。
平安時代の始め、貞観元年(859)行教和尚が京都男山に石清水八幡宮を開基、京の都の守り神としました。石清水八幡宮は神仏習合で、真言宗の寺院である護国寺が全体を運営していました。石清水八幡宮の荘園が八幡にあったとの伝承があります。荘園内の八幡山に正八幡社が設けられ、後に波自加彌神社が合祀されて現在に至っています。
八幡の正八幡社も石清水八幡と同様に真言宗と神仏習合の宮でした。したがって、その本尊は右の様な大日如来でした。正八幡社は一国一社です。北加賀一帯から人々の信仰を集めていたようです。特に毎月二日に奉納される弓渡神事は流鏑馬のような行事でたくさんの見物が来たそうです。おそらく河北潟を船で来る人も多かったので、船が着くあたりに宿や茶店ができて人々が住み着き、二日市村となりました。それほど参詣者の多い神社だったようです。 また、荘園から米などを京都へ送るにも河北潟の水運が使われました。水運業者にとっては神社の行事、荘園の物資の運送は大切な仕事であったはずで、正八幡社の別当(神社と寺院の統率者)と密接な関係が生まれた可能性があります。正八幡社の別当は代々真言宗の浄経坊が勤めました。
米は河北潟を通って宮腰(今の金石)へ運ばれ、日本海航路の船で敦賀へ、陸を通って今度は琵琶湖から都へ運ばれました。内陸への物資もまた宮腰で積み替えられ、河北潟を通って運ばれました。河北潟は今よりはるかに大きく、田近越えなど、越中への陸路への連絡もありました。
浄経坊32代の円乗は、室町時代の文明年間(1468-86)に北國布教中の蓮如上人に強化され、真言宗から浄土真宗に改宗し、名前も蓮如上人からもらって善照坊證賢となり、宮腰港のある吉藤村へ移ります。同じ時期に野々市の大額にあった専光寺もまた吉藤村へ移ります。専光寺は蓮如以前から浄土真宗寺院であり、宮腰で日本海水運業者と結んで東北方面にも門徒を拡大していきます。専光寺と善照坊は協調して吉藤村へ移動したものと思われます。当時の善照坊の門徒には八幡道場、百坂道場、鷺森道場の3道場の外、浅野谷(津幡町浅谷)、赤土の正誓、二日市の道念がいたことが分かっています。河北潟の東岸をしっかりと押さえていることが分かります。
このころ善照坊證賢は蓮如上人より二尊像(親鸞聖人と蓮如上人の絵)もらったお礼に、配下の3道場主(八幡の伊東、百坂の五十嵐、鷺森の五十嵐)を伴って山科本願寺の蓮如上人を見舞いに訪ねます。この時、善照坊と3道場は二尊像を描いた絹の余り布を使って書いた六字名号(南無阿弥陀仏)をもらいます。蓮如上人が亡くなり、又證賢は3道場主と弔問に訪れます。この時は錢十貫文と特産の山芋15本を持参し、実如上人から六字名号をもらいました。