2019年5月31日金曜日

アメリカ文化センター

先の大戦後、間をおかず国内数カ所にアメリカ文化センターが設立された。金沢では兼六園の近く、石浦神社の並びに金沢アメリカ文化センターがあった。初めて訪れたのは母に手を引かれてのことだから、昭和27,8年のことだったのだろう。近所に住む"知的"転勤族の主婦達に誘われて、地元暮らしの母も私を連れて英会話教室に参加した時だったそうだ。
アメリカ文化センター

 敗戦後のごみごみとして、さしたる色彩のない街並みの中でその建物は際だってステキだった。建物の色は白っぽく明るい。中の調度品は見たこともないほど洒落ている。講堂には縦長の窓がたくさんあって明るく、外の緑が一段ときれいに見える。匂いまで違う。屋根の上には星条旗が翻っている。五、六才の私にも違いは歴然としていた。初めてのこの異文化体験は深く心に刻まれた。
 次にアメリカ文化センターを訪れたのは、ずっと後になってからのことである。大学は地元で、サークルはESS(English Speaking Society)に属していたので、度々足を運んだ。館長さんはドアを隔てて奥の部屋、手前にセクレタリーの部屋があり、そのデスクには電話と"in""out"の郵便物の箱があり、日本人のセクレタリーはいつもタイプライターの前に座っていた。アメリカ映画でよく見る光景そっくりだった。尤もこのセクレタリー氏はいつも自分用と思われる英単語用例カードを作っておられたが、、。私は図書館で『セブンティーン』などアメリカの雑誌を借りて、憧れを抱いて見たものだ。ミニスカートのトゥイギーがあの折れそうな細長い足でグラビアを飾っていた時代だ。
 アメリカ文化センターが閉鎖になったのは1967年、昭和42年。その間、文化センターはその明るい建物、豪奢な調度品、蔵書に収められたアメリカ文化を通し、私達に憧れのアメリカを垣間見せてくれた。それはあたかも常時開設万博アメリカ館のような存在だったに違いない。私達はセンターを通し、アメリカを、さらにはアメリカに通ずる西洋を見ていたのだろう。
 戦時中は鬼畜米英といっていた日本人が、戦後すぐ敵国の国語教室に参加するなどというのは確かに大した豹変振りかもしれない。が、振り返ってみれば大正デモクラシーを待つまでもなく普通の日本人の生活、考え方は自由でおおらかなものだったのではないかと思う。寺院の圧力も元来は庶民には遠いもので、人々は山や木や巨岩にも神を見、道祖神に会釈してきた。江戸ではあまたの銭湯は男女混浴だし(尤も湯の温度が高く湯けむりで見通しは悪かったらしいが)、男女は自由恋愛をし、短い人生を謳歌していた。先日読んだ丸谷才一のエッセーには、興味をそそられる逸話が載っていた。勝海舟率いるアメリカ使節団の一員が船に春画を持ち込んだそうだ。見つかってアメリカ側に咎められた時、海舟が中に入り事なきを得た。が、あとでアメリカ男はそれを譲って欲しいと言ったそうな。 
 ジハードが正当化されるイスラムの国と日本とはいろんなところで違っている。アッラーを讃える彼らは鬼畜米英であり続け、仮にイラクの戦後処理がスムースに終っても、星条旗が翩翻と翻るアメリカ文化センターがイラクに建つことはないだろう。精神的にはアミニズム的多神教、今日もお天道様の下、楽しく生きようとしてきたわれわれ庶民は、かつてアメリカが文化センターを通して知らしめた"自由の国"より、ひょっとしてもっと自由だったのかもしれない。世界最強であらねばならない国の議会が、神への祈りから始まるという今のブッシュ・アメリカを見て、そんなふうに思っったりもするのである。
 アメリカ文化センターが機能した期間はわずか十数年。もっともなような気がする。戦前戦中のあの精神的抑圧は日本史上特殊なものだったとい言っても、あながち間違っていないのかもしれない。今、文化センターの跡地はミニ公園になっていて、向かいに昨年オープンした21世紀美術館の街並みにとけ込んでいる。(2005年
11月kantoramom記)

2019年5月30日木曜日

伊東哲 物語 1950年頃 Satoshi Ito children's story

桃太郎
瓢箪ナマズ
 1950年から60年頃は風景画と共にお伽噺や寓話などに題材をとった作品も多数描いています。筆者が子供のころ、伊東哲が絵を描いた「舌切り雀」の紙芝居がありました。今は残念ながら残っていませんが、とても素晴らしい絵であったと記憶しています。絵と物語との連携は伊東哲のテーマの一つであったと思います。細胞の絵の中に雀が何度も出てくるのは、そのような背景があったためではないかと思っています。

因幡の白兎
 Satoshi painted pictures of fairy-tales in 1950-60. He once drew a picture book of "Sparrow Inn". Sparrows appear in his pictures of biological cells. He might imagine fairy-tales in microscopic world. 

2019年5月28日火曜日

伊東哲 風景 1950年頃 Satoshi Ito Landscapes 


松の農家

里山
伊東哲は1950年頃千葉県東金中学校で絵を教えていました。生徒と一緒に書いたと思われ、画用紙に水彩で描いた風景画が多く残っています。
Satoshi Ito painted water color pictures of landscapes while he taught art at Togane junior high school, Chiba pref. 

2019年5月27日月曜日

伊東哲 細胞 1970年頃 Satoshi Ito  Cell

細胞 1970年頃
晩年の伊東哲は自宅の敷地の一部にアパートを建て、その家賃収入で暮らしていました。歩くことも不自由でしたが、絵を描くことへの執念は尽きませんでした。このころは動植物の細胞の顕微鏡写真にヒントを得た作品を数多く描きました。カンディンスキーの影響もあったかもしれません。細胞の顕微鏡写真は筆者も提供したことがあります。
細胞 1970年頃

Satoshi Ito drew pictures conceived by the microscopic pictures of biological cells in his later years. He might be affected by Kandinsky.

2019年5月17日金曜日

ジャック アンド ベティ

英語の教科書
今は昔。黒い夜空に鋭角の三角屋根が三塔。それぞれの長窓から漏れる明かりは黄色。初めて習う英語の教科書は確かそんな表紙でした。教科書の名前は、『Standard Jack and Betty』。今から思えば、「戦勝国アメリカはこんなに豊かな国、民主主義っていいものだ」というメッセージが込められた教科書だったのでしょう。私は、まんまとひっかかったって訳です。
 ジャック・ジョーンズとべティ・スミスは私達と同学年の子供達。彼らと彼らの家族の日常を通し、豊かなアメリカに初めて接したのです。テレビも電話も大きな冷蔵庫も家庭に一台の車も誕生会もピクニックも何もかも珍しく羨ましく食い入るようにその挿し絵を眺めました。
 英語は、ハローとかグッバイくらいはうろ覚えに知っていたと思うけど、まるっきりの初めてです。予備知識なしの私はまず、その発音の異様さに笑いを我慢しなくてはなりませんでした。中一英語担任は若い福本信二先生。今思うと、発音、アクセント、イントネーション共に巧みな先生でした。それで一層日本語との違いが際立ったのでしょう。授業中たまらず、教科書で口元を隠し忍び笑いをこらえていました。が、次第に私はジャックとベッティの目を見張るような豊かな世界に魅了され吸い込まれていったのでした。
 国語の授業にさえ、まだ主語や述語という言葉も出てこないというのに、それだけではなくbe動詞やhave動詞、助動詞に、平叙文、疑問文、受身文、関係代名詞等々の文法をこなし、国語の先に英語で文法というものを習ったようなものです。
 あれから四半世紀、私達は彼らの目論見通りしっかり西洋文明社会に組み込まれました。今、双方の生活レベルはさして変わりません。加えてPC、携帯、ビデオ、最近はカーナビ、DVDまで日常化しています。あの教科書はいつまで使われていたのでしょうか、、、廃版になってもうずいぶん時間が経ったことでしょう。あこがれというものを持っていた頃の自分をとても懐かしくいじらしく思います。あなたもそうでしたか?
 振り返ってみると、あの教科書はちょっと変な教科書でしたね。端からThis is a pen. I am a girl. That is a window. There is a house on a hill. ですもの。そんなこといきなり言ったら「あなたは正気ですか」ってじろじろ見られること必定でしょう。ネイティブには"とんでも教科書"だったかも知れません。
 清水義範著『永遠のジャック アンド ベッティ』では、その後何十年振りかで再会したジャックとベティはあの怪しげな英語でパロディ風に会話の続きをしています。あれからアメリカはベトナム戦争、反戦運動、ウオーターゲート事件、人種問題といくつも難題をかかえ、ジャックとベティの会話も屈折したものとなっています。
『Standard Jack and Betty』。あれはやはり永遠の憧れの世界に留めておいた方がよさそうですね。
(母屋の屋根裏部屋を整理したとき、連れ合いが47年前に使っていた教科書が出てきました。懐かしい実物との再会です。埃を払って絵を描き、挿絵としました。)

2019年5月15日水曜日

第4回帝展(1922年)入選作 行楽の日

行楽の日 縦90.5 横116.5
1919年の「野」、1920年の「高原」に続き、1922年の第4回帝展に入選した作品です。和服に袴を着た若い女性が森の木陰の草の上でトランプゲームでもしているのでしょうか、くつろいだ様子です。美しい若い女性は女性向きの本に出てくるような、何か様式的であまり実在感がないような気がします。メガネの女性のモデルは哲の夫人綾子だそうです。

2019年5月8日水曜日

第7回帝展(1926年)入選作 遠足

第7回帝展(1926年)入選 遠足
縦80x横100
読書
縦90x横116.5
伊東哲の文展及びその後継の帝展への5回目の入選作です。これまでの写実的な人物像やきれいな若い女性像とは違った描き方です。引率の先生はなんだか疲れているようだし、子供たちもあまり楽しそうではありません。4年前に入選した「行楽の日」とは別人の作品のようです。私の推定ですが、この4年の間に例えば「読書」のような作品を出品したけれども入選にはならなかったのではないかと思います。「読書」における人物の造形は「行楽の日」と「遠足」の中間に来るような感じがします。哲はまだ、自分の絵をどのように特徴づけるか、迷っていたのではないかと思います。
因みに遠足の生徒たちの中心で白い服を着ている女の子は哲の姪で後に富山県福岡町(現在の高岡市)の酒井家へ嫁いだ悦子だと聞いています。