アメリカ文化センター |
敗戦後のごみごみとして、さしたる色彩のない街並みの中でその建物は際だってステキだった。建物の色は白っぽく明るい。中の調度品は見たこともないほど洒落ている。講堂には縦長の窓がたくさんあって明るく、外の緑が一段ときれいに見える。匂いまで違う。屋根の上には星条旗が翻っている。五、六才の私にも違いは歴然としていた。初めてのこの異文化体験は深く心に刻まれた。
次にアメリカ文化センターを訪れたのは、ずっと後になってからのことである。大学は地元で、サークルはESS(English Speaking Society)に属していたので、度々足を運んだ。館長さんはドアを隔てて奥の部屋、手前にセクレタリーの部屋があり、そのデスクには電話と"in""out"の郵便物の箱があり、日本人のセクレタリーはいつもタイプライターの前に座っていた。アメリカ映画でよく見る光景そっくりだった。尤もこのセクレタリー氏はいつも自分用と思われる英単語用例カードを作っておられたが、、。私は図書館で『セブンティーン』などアメリカの雑誌を借りて、憧れを抱いて見たものだ。ミニスカートのトゥイギーがあの折れそうな細長い足でグラビアを飾っていた時代だ。
アメリカ文化センターが閉鎖になったのは1967年、昭和42年。その間、文化センターはその明るい建物、豪奢な調度品、蔵書に収められたアメリカ文化を通し、私達に憧れのアメリカを垣間見せてくれた。それはあたかも常時開設万博アメリカ館のような存在だったに違いない。私達はセンターを通し、アメリカを、さらにはアメリカに通ずる西洋を見ていたのだろう。
戦時中は鬼畜米英といっていた日本人が、戦後すぐ敵国の国語教室に参加するなどというのは確かに大した豹変振りかもしれない。が、振り返ってみれば大正デモクラシーを待つまでもなく普通の日本人の生活、考え方は自由でおおらかなものだったのではないかと思う。寺院の圧力も元来は庶民には遠いもので、人々は山や木や巨岩にも神を見、道祖神に会釈してきた。江戸ではあまたの銭湯は男女混浴だし(尤も湯の温度が高く湯けむりで見通しは悪かったらしいが)、男女は自由恋愛をし、短い人生を謳歌していた。先日読んだ丸谷才一のエッセーには、興味をそそられる逸話が載っていた。勝海舟率いるアメリカ使節団の一員が船に春画を持ち込んだそうだ。見つかってアメリカ側に咎められた時、海舟が中に入り事なきを得た。が、あとでアメリカ男はそれを譲って欲しいと言ったそうな。
ジハードが正当化されるイスラムの国と日本とはいろんなところで違っている。アッラーを讃える彼らは鬼畜米英であり続け、仮にイラクの戦後処理がスムースに終っても、星条旗が翩翻と翻るアメリカ文化センターがイラクに建つことはないだろう。精神的にはアミニズム的多神教、今日もお天道様の下、楽しく生きようとしてきたわれわれ庶民は、かつてアメリカが文化センターを通して知らしめた"自由の国"より、ひょっとしてもっと自由だったのかもしれない。世界最強であらねばならない国の議会が、神への祈りから始まるという今のブッシュ・アメリカを見て、そんなふうに思っったりもするのである。
アメリカ文化センターが機能した期間はわずか十数年。もっともなような気がする。戦前戦中のあの精神的抑圧は日本史上特殊なものだったとい言っても、あながち間違っていないのかもしれない。今、文化センターの跡地はミニ公園になっていて、向かいに昨年オープンした21世紀美術館の街並みにとけ込んでいる。(2005年11月kantoramom記)