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2019年5月30日木曜日

伊東哲 物語 1950年頃 Satoshi Ito children's story

桃太郎
瓢箪ナマズ
 1950年から60年頃は風景画と共にお伽噺や寓話などに題材をとった作品も多数描いています。筆者が子供のころ、伊東哲が絵を描いた「舌切り雀」の紙芝居がありました。今は残念ながら残っていませんが、とても素晴らしい絵であったと記憶しています。絵と物語との連携は伊東哲のテーマの一つであったと思います。細胞の絵の中に雀が何度も出てくるのは、そのような背景があったためではないかと思っています。

因幡の白兎
 Satoshi painted pictures of fairy-tales in 1950-60. He once drew a picture book of "Sparrow Inn". Sparrows appear in his pictures of biological cells. He might imagine fairy-tales in microscopic world. 

2019年5月28日火曜日

伊東哲 風景 1950年頃 Satoshi Ito Landscapes 


松の農家

里山
伊東哲は1950年頃千葉県東金中学校で絵を教えていました。生徒と一緒に書いたと思われ、画用紙に水彩で描いた風景画が多く残っています。
Satoshi Ito painted water color pictures of landscapes while he taught art at Togane junior high school, Chiba pref. 

2019年5月27日月曜日

伊東哲 細胞 1970年頃 Satoshi Ito  Cell

細胞 1970年頃
晩年の伊東哲は自宅の敷地の一部にアパートを建て、その家賃収入で暮らしていました。歩くことも不自由でしたが、絵を描くことへの執念は尽きませんでした。このころは動植物の細胞の顕微鏡写真にヒントを得た作品を数多く描きました。カンディンスキーの影響もあったかもしれません。細胞の顕微鏡写真は筆者も提供したことがあります。
細胞 1970年頃

Satoshi Ito drew pictures conceived by the microscopic pictures of biological cells in his later years. He might be affected by Kandinsky.

2019年5月8日水曜日

第7回帝展(1926年)入選作 遠足

第7回帝展(1926年)入選 遠足
縦80x横100
読書
縦90x横116.5
伊東哲の文展及びその後継の帝展への5回目の入選作です。これまでの写実的な人物像やきれいな若い女性像とは違った描き方です。引率の先生はなんだか疲れているようだし、子供たちもあまり楽しそうではありません。4年前に入選した「行楽の日」とは別人の作品のようです。私の推定ですが、この4年の間に例えば「読書」のような作品を出品したけれども入選にはならなかったのではないかと思います。「読書」における人物の造形は「行楽の日」と「遠足」の中間に来るような感じがします。哲はまだ、自分の絵をどのように特徴づけるか、迷っていたのではないかと思います。
因みに遠足の生徒たちの中心で白い服を着ている女の子は哲の姪で後に富山県福岡町(現在の高岡市)の酒井家へ嫁いだ悦子だと聞いています。

2019年4月26日金曜日

第1回帝展(1919年)入選作 野

野 1919年第1回帝展入選 96.5x135
1916年文展入選の夫婦に続いて、1919年の第1回帝展に入選した作品です。夫婦では漁村の朴訥な感じの老夫婦を祖の古そうな家も含めて写実的に描きました。また自分の家族や近所の農夫をモデルに同じように写実的な人物像を描いてきました。
しかしこの絵では画風を大きく変えて、若い女性を柔らかいタッチで描いています。背景の風景も丸く柔らかです。この間に哲は結婚しています。そのことが影響しているのかもしれません。このようなモチーフでの入選は3作品続きます。

2019年4月21日日曜日

第2回帝展(1920年)入選作 高原 

高原 1920年
縦91cm、横182.8cmのこの大作は第2回帝展に入選した伊東哲の代表作です。哲の生家に預けられていた間にひどい虫食いが発生し、石川県立美術館の二木伸一郎さんを中心に大規模な修復が行われました。野外でくつろぐ若い女性を描いた作品は、ルノワールの女性にも似てこのころの哲の作品の典型と思われます。

2019年4月19日金曜日

白蓮を伊東哲に紹介したのは犀東か

 伊東哲は1916(大正)年の「夫婦」以降、次々と文展、帝展に入選してきたのですが、昭和2年に柳原白蓮をモデルに大作「沈思の歌聖」を出品しました。哲は特選を狙ったようですが、特選はならずまた批評家から売名行為などと厳しい批判を浴びたことから、二度と中央画壇に作品を出品しませんでした。哲の人生の大きな転機となった事件でした。白蓮は大正三美人の一人とも言われ、大正天皇の従妹に当たる有名人で、田舎者の哲とは縁遠い人のはずです。白蓮を哲に紹介したのは誰だったかは大きな謎ですが、最近それは同郷の漢詩人、国府犀東ではなかったかと思わせる資料が出てきました。
 1927(昭和2)年10月25日消印の犀東から哲の兄平盛へ宛てた手紙には次のように書かれています。
(略)先以而哲様御丹精を凝らされし沈思の歌聖入選ならせられ奉大賀候意外なる紛議を沸騰せしめ由にてお気の毒に奉存じ候充分にや特選あるべき御力量に累度ほせしやにて獨く痛心罷在候(以下略)。また、この手紙には「沈思の歌聖」の絵葉書が添付されており、その宛名面に右のような寄せ書きが書かれていた。右から、白蓮、野田茂重、操、南弘、伊東哲、国府種徳(犀東)です。
おそらく、帝展の会場に集まった旧知のメンバーが絵葉書に寄せ書きし、その一枚を犀東が送って来たものと思われる。
南弘は1869(明治2)年富山県の生まれ。四高、東大政治学科と犀東の先輩で、内務官僚から1912年貴族院議員、1913年から福岡県知事、1918年から文部次官であった。犀東の内務省勤務は南弘の推薦があったのかもしれません。また南弘も漢詩を作り、犀東とは公私でつながっています。白蓮は福岡の炭鉱王に嫁いでいたので、そのころ知事の南弘とは顔見知りであったかもしれません。

哲から平盛へ宛てた1927(昭和2)年10月の手紙の中に、「先夜もある小集会にて南弘夫人、国府夫人、白蓮夫人とこの話題が出ました」という部分があります。話題は国府家の嫁取りの話ですが、これらの人たちが夫人を含めた旧知の間柄であることが分かります。

沈思の歌聖の絵葉書の宛名面への寄せ書き

1927(昭和2)年12月29日付犀東から平盛へ宛てた手紙では、「今年は図らずも白蓮夫人のご迷惑を相掛、何とも恐縮。歳末に当たり、謹んでお詫び申し上げる」という意味のことを述べています。

これより前の同年8月11日付の手紙では哲が大作を準備していると知らせてきている。犀東が、「沈思の歌聖」の制作過程を把握していることが伺えまる。これらのことから、哲の同郷で、哲の兄平盛と交流のあった犀東が、白蓮をモデルに描くべく紹介したと推定されます。


2019年4月8日月曜日

伊東哲の物語5 帰ってきた画

戎克(ジャンク)

北京西部大寧寺 古塔近辺写生
何か一つのことを始めるとする。おぼろげではあるけどその完結に向け、こつこつやっていると、その過程で予期せぬ発見があったり、ハプニングに出会ったりすることがあります。烏山頭ダム工事のタペストリーは発見であり、この戎克(ジャンク)と題する画と、中国で描かれた北京西部大寧寺と題する画が帰ってきたことは、確かにハプニングであった。
 2013年1月、焼津の竹田吉雄さんという和菓子屋さんから電話がかかってきた。「伊東哲さんの画の件でやっとこの電話番号にたどり着いた」とのこと。何のことだろうといぶかしく思った。竹田さんは3年くらい前に島田の骨董屋である絵を買ったそうだ。それが伊東哲の画ではないかという。そして親切なことに我が家まで持ってきてくれたのだ。「なんだか気になる画でずっと出所を探していたが、今日こうしてあるべきところに落ち着いて嬉しい」とまで言うのです。何というハプニングなのでしょう。
それは波立つ海に浮かぶ一艘の小さな船を描いたものです。1931、Itoh Satoshiとあります。裏書は「戎克」昭和九年九月二十八日於淡水作とある。
こつこつと伊東哲の跡を追ってきた私たちにとって、画も描かれた年代も裏書もすべて納得のゆくものです。1930(昭和5年)はタペストリー完成の年で、伊東哲は1934年、まだ台湾で嘉南大圳組合記念塔の壁画を描いていたりします(現時点で記念塔の壁画は確認されていません)。台湾のあちらこちらを巡ったことでしょう。画材をたくさん持っていたわけではありません。数枚の板の表と裏に描いたりしたのでしょう。重ね描きもしたことでしょう。日付や題名が削られたのはきっとそのせいでしょう。なぜこの画が、本人の手を離れ骨董屋などにあったのかは分かりません。台湾で日本人の誰かに上げたものが流れ着いたのかもしれません。いずれにせよ、伊東哲の生家に帰って来たことは奇跡です。大変うれしい出来事でした。
もう一つは最近親戚から帰って来た北京古都の画です。哲の姪(哲の兄平盛の娘で夫の叔母に当たる)は昭和22年に結婚しました。伊東哲は引き揚げて来たばかりで、実家の姪の結婚なのに何もお祝いとして上げるものはなかったようです。それで惜しげもなくあの大事なタペストリーとこの北京で描き、唯一持ち帰ることのできた画をプレゼントしたそうです。裏書は「昭和十九年十月於北京西部大寧寺 古塔近辺写生 伊東哲」。近くから見れば何が描かれているかよく分かりませんが、離れて見ると、ぐっと迫ってきて臨場感溢れる画です。いかにも伊東哲らしい画で、藝大の頃の風景画に比べ、対象の解体度はますます大きくなっています。大雑把に力強く捉えられているのです。美術学校教授でしたから北京でたくさん画を描いたに違いありません。が、引き揚げて来るときにはほとんど持ち帰ることができなかったことでしょう。持ち帰ることのできた画はこの小さな画を含め、あと何枚あるのだろう。貴重な絵が帰ってきて、叔母さんの好意に感謝です。もちろん、ギャラリー唯一の北京での画です(今のところこれ以外に北京での画は確認されていません)。
このようなハプニングはご褒美といえばおこがましいのですが、力づけられる出来事でした。あともう少し続けて、晩年、東金時代の伊東哲まで行ってみたいです。kantoramom記 

2019年4月7日日曜日

伊東哲(さとし)の物語 3 台湾へ渡る

烏山頭ダム工事図  油彩 211x72cm
伊東哲は昭和2年第8回帝展出品作として林の中で詩作に耽る柳原白蓮を描いた。題して“沈思の歌聖”。入選はしたものの、狙っていた特選を逃し、揚句、伊東に対しては売名行為などという嫉妬に近い激しいバッシングを浴びせられた。他との妥協を最も嫌う伊東哲である。芸術においてはなおのこと。彼はついに画壇と決別してしまう。 
長兄平盛は弟哲の再起を願って、親戚であり朋友でもあり学友でもある八田與一に弟のことをしばし託した。当時八田與一はすでに烏山頭ダム工事の責任者として辣腕をふるっていた。八田與一に“招かれた”形で台湾に渡った伊東哲に対し、與一はフランス製の画具を豊富に与え、彼の画業の後押しをした。地理的にも中央画壇から遠く離れ、気候温暖な台湾の地で哲の精神も伸びやかになったようで、このころから彼の作品には、対象への大らかなディフォルメ、あるいは図案化といったものが見られるようになる。 
台湾での作品として、“八田與一像”と”ダム工事図“があり、現在も嘉南農田水利会会長室に飾られているという。その他、オランダ統治時代の楼閣〝赤かん楼”や、“働ける労働者”(未完)などがあるが、持ち帰った作品の多くは東京大空襲で焼けてしまったようだ。 
2012年9月、八田與一没後70年記念として“台南ウイークin 金沢”という金沢・台南の親善行事が開催された。“嘉南大州の父”と称され、台湾の人たちに今も敬愛されている八田與一の遺品と共に、伊東哲の描いた“八田與一像”と“ダム工事図”も里帰りした。特に“ダム工事図”はこれまで門外不出で、小さな写真でしか見ることができなかった。実物は本邦初公開である。 
初めて“ダム工事図”を目の当たりにしてそのスケールの大きさに圧倒された。やがてダムで潤うであろう赤茶けた大地が広がっている。遠景は見渡す限りの地平線と空である。工事現場を中心に何キロに及ぶ景色であろうか(ちなみに完成時の堰堤延長は1273メートルで貯水量世界一という)。こんなに大きな風景画を今まで見たことがない。ドイツから買い入れたという機関車が煙を高く吐きながら、土砂を積んでやって来る。堰堤となるところに後のメンテナンス用のコンクリート筒柱が4,5本そびえたつ。土砂を落とし終えた機関車が、また煙を吐いて小さく去ってゆく。中央手前の丘では人々が手作業で土砂を掻いている。画では人々は芥子粒のような一刷だ。これは、土砂を運び、そこに水をかけ水牛に踏ませて固めるという特異なダム工事(セミハイドロリックフィル工法)の記録画であると共に、あの時代の“証言”的な画でもあると思う。 
ものすごく躍動的なのだ。台湾を統合した日本が、何とか食糧難を排し、富国のため英知を集め一つの目標に向かう。日本人も、日本人となった現地人も力を合わせている。そういう時代の躍動感がおのずと画にも現れ出ているのだ。人々、木々、牛たちのディフォルメ的描写は、その気運にとてもマッチしている。 
これまで伊東哲の代表作は第2回帝展作品“高原”とされてきたが、この“ダム工事図”こそが彼の代表作ではないかと、私は思う。画壇を離れたことで世間の縛りが解け、哲自身の内面の大きさが絵の大きさと重なって見える。1か月後、2枚の画は再び嘉南農田水利会会長室に帰って行った。この催しを機にほとんど原画に近い複製画を、金沢の「ふるさと偉人館」で見ることが出来るようになったことは、幸いなことである。
2013年5月 kantoramom記

2019年3月30日土曜日

伊東哲(さとし)の物語 2 NHKエデュケーショナルがやって来た

自画像 東京美術学校卒業制作

沈思の歌聖 絵葉書
2007年は東京芸術大学創立120周年に当たり、卒業生の自画像展が開催された。NHKエデュケーショナルは芸大卒業生自画像に焦点を当てた特集番組を企画した。先ず企画チームスタッフが何の予備知識もなく自画像を見て、スタッフの目や心に訴えかけた自画像を選び、それを描いた作家の足跡を辿るという斬新な企画だった。その中の一つが無名の画家、伊東哲の自画像だったというのだ。
大正5年に描かれた彼の自画像は、ダークブラウンの毛皮の襟のついたマントを着、見るものに挑みかかるような鋭い眼光を向けている。優しさも穏やかさのかけらもない怖い顔である。そのポートレートを追って、NHKが哲の生家である我が家にも取材に来たのだ。NHKのロゴなどどこにも見当たらないバスに乗って5,6人のスタッフでやって来た。
彼らは千葉県に住む画家の令息や、石川県立美術館などでの取材を終えており、哲が描いた第八回帝展入選作“沈思の歌星”事件のことをすでに把握していた。我が家の伊東哲ミニギャラリーや、これまでの入選作が我が家に疎開して置いてあった場所などを取材した。晩年カレンダーの裏などに描いた細胞画や哲が台湾で描いた八田与一像、烏山頭ダム工事画の写真も収めた。
スキャンダラスな美人、柳原白蓮を描いたことで、哲は痛烈なバッシングを浴び画壇を去ったという話は、彼らNHKスタッフの最も興味とするところだった。何と言ってもストーリー性があるのだから。後にスタッフの一人河邑厚徳氏は著書『藝大生の自画像』(NHK出版)で「調べが進むにつれ、予想外のドラマが隠されていることが明らかになってきました。伊東は運命に翻弄され挫折した人物でした」と、ことの経緯を詳しく述べている。
問題の“沈思の歌星“は購入され、東京丸ビルに飾られていたが、戦災で焼失した。私の義父は制作当時、哲叔父宅に下宿していて絵の進み具合をその目で見た一人だった。“画面が三段になった変わった絵で、その真ん中の林で白蓮が、歌を作っている絵やった。わしが見た頃は最後の仕上げ段階やった”と、言っていた。
NHKの調査で、その絵のカラー絵葉書(当時展覧会で売られていたもの)が、白蓮の長女蕗冬さん宅に残されていることが分かった。(実は哲の後妻宅にも一枚残されていて、私と夫はすでに見ていた)。初めてその絵を見た時、私はボッチチェルリの“春”を連想した。背景に樹木があり、足元に草花が散らばり、詩作する白蓮がスッと立っている。義父が三段といっていたけれど、実は画面が縦に三分割されていたのだ。分かれ目は太い柱で、柱と柱の間の上部はアーチになっている。いや、額がそういう特別しつらえだったかもしれない。確かに変わっている。しかも白蓮はオレンジ色の着物に黄色の打掛を羽織って、かなり目立つ。実はこの打掛もスキャンダラスなものであることを私たちは初めて知った。
白蓮長女蕗冬さん宅でのNHK調査によって、その打掛は白蓮が彼女の伯母に当たる二位の局(明治天皇の側室で、大正天皇生母)から下賜されたものであったのだ。筑紫炭鉱王の妻であった白蓮が東京帝大生と駆け落ちし、夫への離縁状を新聞紙上に発表するというスキャンダルからすでに6年が経っていた。彼女は詩作だけではなく、徐々に女性解放運動に向いてゆく。白蓮はわざと天皇家由来の打掛を着て、女性を縛る社会への不屈の精神を現す自分を描いて欲しかったのだ。哲はそのことを承諾して描いたに違いない。ボッチチェルリの“春”にも右端に暗雲を暗示する天使が描かれている。哲も“春”が頭にあったのではないかと私は思う。暗示は大胆にも柱とアーチということだろう。ずばり女性を縛る社会の枠ということではなかったか。
NHKはその経緯を踏まえ「その意味では、画家として伊東は、無防備でイノセントでした」とし、数奇な運命に翻弄された画家ととらえた。それにしてはNHKスタッフの目に留まったほどの自画像の不敵さは何なのだという疑問が残る。はたして“無防備でイノセント”だったのだろうか。私は家に残されている、伊東哲の兄平盛の当時の日記を調べたり、帝展初入選時の哲の新聞コメントを探したりして、私なりに調べてみた。
大正5年10月19日の北國新聞に“非凡の画才”と題して、“伊東哲文展西洋画初入選”の記事がある。その中で彼の抱負や理想として兄平盛氏に宛てた哲の書信を紹介している。 「私が文展に入選するのは当然であります。もし落選したとしてもそれは私の技量と思想とが審査官諸士と全く違った方向に道を取ったという事実に帰着します」と書いている。不遜と言っていいほどの自信である。
問題の第8回帝展作品“沈思の歌星”当時の平盛日記(付記1)によれば、哲は第8回帝展では明らかに特選を狙っていたし、かなり自信もあったことがうかがえる。哲は5人兄弟の上から2番目。この兄弟は、学生の頃兄弟誌“山百合”を作っている。そこには哲は世間おもねることのない確立された自己を持つ人であったことが明らかに読み取れる。大正5年発行の第3号で、哲は“真の自己”(付記2)と題してこう書いている「吾々が真に従わなければならぬものは自己内心の真実においてである」と。
社会に迎合することなく,自己に忠実であることが大切と哲は主張している。“自分は内心そうおもうけど、世の中そうはいかないから”と、大方の人は自分擁護のため無意識にもダブルスンダートを持つ。が、伊東哲はそのことを最も嫌っている。自分に忠実であろうとする人間であることがよく分かる。
 柳原白蓮も全くそのような人であった。哲は白蓮の生き方やそれを縛るものに対する彼女の挑戦の思いもよく理解し共感したであろう。“沈思の歌星”は白蓮と哲共同の社会への挑戦状だったのだ。バッシングはむしろ当然の成り行きだったのだ。画壇からは“売名行為”ととられ、無能の画家からは妬みを受け、“お前はジャガイモのような田舎夫婦や農夫を描いておればいいのだ”と書かれ、白蓮は“変態性欲の狂女”と再び揶揄された。
 伊東哲はNHKが言うような無防備でイノセントでは決してなかったのだ。白蓮と共に社会や画壇と対峙したのだ。そこに彼の画家としての匠気がなかったわけではない。特選を狙うほどの気合のいれようだったということだろう。これでようやく見る者を射るような鋭い眼光の自画像と、“沈思の歌星”事件との整合性を見ることが出来た。
 取材を終えたNHKエデュケーショナルは、そのうちNHKスペシャルでも放送されるでしょうと言い置いて帰った。ところが数か月後、番組は芸大との共同制作となったため、伊東哲に関しては申し訳ないけど、一部だけの紹介になってしまうとの連絡を得た。NHKエデュケーショナルが最も興味を示したあの黄色の打掛が、その原因ではなかったのだろうかと私は推測する。天皇家に触れることは女性週刊誌ならいざしらず、NHK上部にとっては今なおとてもデリケートで、できるなら地雷を避けてソフトペタルでゆきたい問題なのだろう。NHKエデュケーショナルの調査で“沈思の歌星”に隠された意外な事実が浮かび上がった。しかしNHKの社会的縛りにより、それは消された。この皮肉な対比劇にNHKのいかにも日本的なダブルスタンダードを見た思いである。
(2013年2月satoyamachika記)
 付記1 兄平盛日記
昭和2年10月16日。明日は帝展の審査日なりと よき便あれかし。
昭和2年10月17日。東京より通信あり 特選候補なり乍ら至難という 魏を得て蜀を望む心地す。
昭和2年10月20日。帝展特選ははづれたるか如し 残念なれども欲が深うすぎるかも知れぬ。
昭和2年11月9日。國府氏 左の沈思の歌星に題する詩を送る。(國府氏とは國府犀東のこと、彼は隣村、二日市出身の宮廷漢詩人であり、平盛と親交があった。平盛は大変篤実な人で、長兄として終生弟たちの面倒をみた。帝展特選を逃し、落胆する弟を気遣い親交のあった國府犀東に頼んで励ましてもらっている。沈思の歌星に関する批評が気になり金沢の本屋で美術関連の雑誌を求めている。日記左に書かれた漢詩は省略する。内容は沈思の歌聖がどういった絵であるかを書き、最後に後の世に理解者が出るのを待て、というような消沈の哲を励ます漢詩である)
付記2 兄弟誌『山百合』第3号の中から
私に於いては私はいつでも赤裸の私自身を語ることなしに一語も成すことが出来ないのである。私の書くことは間違っているかもしれない私にとって私が心から信じたことのみを書く(中略) 悲しむべき両者の(自分と他の兄弟のこと)この相違は永久に調和し融合する時期がこないであろう。私はこの私の見方を正統とし益々斯の如き素質の生長を望んでいるのに反し諸君は非社交的不合理な言葉として又考えとして私とは全然反対の立場に居られるのである。『多数が悪いと見たならばその行為を治すのが社会である』と或る人が言うだろう、然しこれは最もくだらぬ常識的解釈であって一般階級の上に出ることが出来ぬ。これは進歩なき社会の状態である。社会は絶えざる進歩の道程である(中略)社会は同一の状態持続でないことだけは事実である。(中略)吾々が真に従はなければならぬものは自己内心の真実においてである。これから発したものが最も尊敬すべきものである、芸術に於いて最も然りである」

ある洋画家との出会い 1 kantoramomエッセイ

私の家にはある洋画家の絵があちこちに飾ってあります。居間の一角には、ゆるやかな起伏をみせて広がる春の野で一頭の馬がのんびり草をはんでいる絵が掛かっています。ソファの後ろの壁には、これも馬の絵ですが、同じ構図の絵を対で飾ってあります。一方は傾きはじめた大きな太陽の下、急いで荷を運ぶ荷馬車の絵です。西日に人も馬もまぶしく揺れてみえます。もう一方は、日が落ちてしまった後、仕事を終えて家路を急ぐ人と馬のシルエットが茜の残照にくっきり浮かびあっています。同じ風景を時系列で描いているのです。
 玄関ホールの絵は季節ごとに変わります。お正月は、松並みの向こうにほんの小さく描かれた鳥居の絵。春は満開の桜並木の絵。手前の池にも映えていっそう華やかです。茶屋の暖簾の白と毛氈の赤が愛らしい。夏は海辺に浮かぶ一艘の船。秋には、収穫を終え重い荷車を引いて月夜を急ぐ農夫と農耕牛の絵です。
 いずれの絵も対象を大きくディフォルメし印象を力強く、さらっと描いています。小さめの画用紙に描かれた水彩画ですが、そこに描かれた自然はゆったりと広く、時間はのんびり流れています。どれも私の大好きな絵です。一日に何度も見やり、忙しい私の心もふと立ち止まりゆったりするのです。
 画家の名は伊東哲。明治二十四年石川県河北郡花園村生まれ。石川県で初めて文展(日展の前身)洋画部門で入選を果たした石川洋画の先駆的画家です。初入選は東京美術学校(現、東京芸大)在学中のことでした。その後も度々入選を重ね将来を嘱望されていたそうです。が、突如彼は中央画壇を去るのです。第八回帝展入選作は「沈思の歌聖」と題する絵で、森の中で詩作にふける柳原白蓮を描いた絵だったそうです。当時マスコミを賑わせるような“不道徳な女”をモデルにしたことで、画壇の不興を買ったのです。売名行為などという中傷を浴びたのです。画壇を去った彼は、以後画壇に属することなく、制作の場を台湾、北京に移し、敗戦後は千葉県流山中学校の美術教師となり、死ぬまで絵を描き続けました。東京大空襲で何百枚という油絵を焼失し、また夫人や長男に先立たれ、不遇な生涯でした。
 伊東哲は夫の祖父の弟です。伊東の家は辿れば平安時代までさかのぼることができるらしい。その昔、京都男山八幡宮の荘園管理のためこの地に赴任したのが始まりだそうで、以来、連綿とここ金沢市の北端の山あいに暮らし続けている。蔵や屋根裏はあたかもタイムカプセルのようです。昔の人が袖を通したであろうかび臭い古い綿入れ着物、明治の人が書き残した手紙の束、ガラス乾板の写真ネガ。ここでは時間が止まっている。
 そんな中にこれらの絵もあったのです。箪笥の裏に落ちていたり、その辺に埃をかぶって無造作に置かれていたりしていました。富士市の我が家に借りてきて楽しんでいるうちに、魅了されていったのです。このような自然や人間に対する深くて優しい洞察力と力強い表現力を持つ画家のことをもっと知りたいと思いました。舅に昔の話を聞いたり、文展、帝展入選画が寄贈されているという石川県立美術館を訪ねたりして、前述のようなことを知ったのです。
 毎日これらの絵を見ているうちに、彼の画業を何とか子供たちや、できるならその後の世代にも残し伝えたいと思うようになりました。親戚などに残されている絵を訪ね歩き、写真に収めてゆきました。ようやく手製のささやかな画集ができたのは平成七年春のことでした。彼の絵に出会ってから七、八年も経っていました。
 県立美術館から“伊東哲を知る貴重な資料”と、思いがけない評価を受けました。そして、とうとう平成九年『伊東哲と石川洋画の先駆者たち展』という晴れがましい展覧会が開催されることになったのです(於石川県立美術館)。埋もれた画家のわずかに残る作品が、日の目を見ることになったのです。代表作『高原』の女性たちがまぶしそうに輝いて見えました。我が家の水彩画もその末席を飾りました。
 人生には時に思いがけない出会いがあるものですね。もう亡くなった画家とその絵にこうして出会い、私の心が揺さぶられている。一日の仕事を終えて、夕焼け空を行く農夫と農耕馬。労働の後の夕日はやさしく柔らかい。「明日はどんな日になるか誰にも分からない。けれど、明日も働こう。明日の夕暮れも穏やかなれ」とその絵は語っているようです。世に媚びず、描くことだけに身をゆだねた彼の一生が語りかけているように思われます。
(1995年 kantoramom記) 


2019年3月29日金曜日

農夫(1912年)、老人(1916年)

農夫(1912年) 石川県立美術館蔵
老女と同じ時期の作品で、家族や近所の人をモデルに描いた習作の一枚と思われます。なたを持った農夫が地面に座っています。日焼けしていて毎日働いている様子ですが鋭い目をしています。モデルは伊東忠太郎と言われています。
老人(1916年)

下の絵も近所の農夫をモデルに描いたものと思われます。手は節くれだっていて、いかにも働き者の様子です。この時期の哲は家族や近所の人をモデルに農家や漁村の働く人をしっかり描き込んでいます。人物の内面をも捉えるような力量を持っているように思われます。

2019年3月28日木曜日

老女 つね像

老女 モデルは哲の祖母つね 石川県立美術館蔵
老女と題されたこの絵のモデルはこの絵を描いた伊東哲の祖母つねです。13代(伊東)平右衛門夫妻には子供がいなかったので、妻の寿々は自分の実家の今町村(八田)四郎兵衛から寿々の姪に当たる11歳のつねを養女にもらいました。幕末安政元年、1854年のことです。つねが15才の時、隣の二日市村亀田治兵衛から平右衛門の甥にあたる外次郎を婿に迎えました。外次郎は後に14代伊東平右衛門を名のります。この二人はしっかり者でよく働いたようで家産も増え、伊東家がもっとも繁栄したころです。哲の兄平盛は明治39年正月の日記に「鬼婆も屠蘇三杯機嫌よし」と俳句を書いていて、気が強かったことをうかがわせます。
14代平右衛門とつね 1913年

ねは八田與一の叔母にあたり、與一と平盛、哲兄弟との深い交流の基礎となりました。14代平右衛門は大正2年1913年に74歳で、つねは大正11年1922年に77歳で没しました。

2019年3月26日火曜日

第10回文展(1916年)入選作 夫婦

夫婦 油彩 大正5年(1916
90.5
117.0 石川県立美術館蔵
10回文展入選(初入選)


この絵は伊東哲が初めて文展に入選した作品「夫婦」です。この時哲はまだ東京美術学校在学中で、夏季休暇を利用して富山県氷見に滞在し氷見浦の漁師夫婦を描いたものです。田舎の働き者で実直そうな夫婦の実像が伝わるようです。

2019年3月9日土曜日

洋画家伊東哲 Satoshi Ito, artist

伊東哲自画像

  伊東哲(さとし)は、大きな農家の次男として1891年(明治24)花園村に生まれました。金沢一中(現石川県立泉丘高校)から東京美術学校(現東京芸大)に進みました。1916(大正5)年の第十回文展に入選後、帝展を含め5回入選し、石川洋画の先駆者として将来を嘱望されていました。しかし1927(昭和2)年第8回帝展入選作「沈思の歌星」で柳原白蓮をモデルに描いたことが売名行為と中傷誹謗されたため中央画壇を離れ、二度と戻ることはありませんでした。
  当時台湾で、哲の母の従弟で幼馴染の八田與一が大規模な水利工事を行っていました。哲は1928年から30年にかけて與一に招かれて工事の記録画や與一の肖像画を描きました。その後1939年から終戦まで北京の国立芸術専科学校教授として絵を教えました。
  戦後は千葉県東金中学校で美術教師として勤務、晩年は東京沼袋の自宅で新聞の折り込み広告の裏などに、絵を描き続け、197988歳で没しました。花園村(現在は金沢市花園八幡町)の生家には習作や家族を描いた油彩、戦後の水彩画など50点ほどを展示してあります。

伊東哲に関する出版物

伊東哲  河邑厚徳「藝大生の自画像」 NHK出版2007年 p110-116
故郷に見える人間味 花園村伊東兄弟との交流から 伊東平隆「北國文華」2009冬号p42-49, 2008
 異能の画家・伊東哲の数奇な生涯 八田技師建設のダム記録画を描いた男 伊東平隆「北國文華」20013冬号p170-179 2010
 「花子とアン 柳原白蓮を描いた金沢の奇才 伊東哲画伯の数奇な人生」 アクタス20149月号p20-27
白蓮を描いた金沢の画家・伊東哲 二木伸一郎 北國文華2014秋号 p169-182
「回想の八田與一」 北國新聞社出版局編 20161215日 p18「青年與一立山に登る」に伊東哲について紹介
 歴史街道June2017 PHP研究所 p62に「嘉南大しゅう工事模様壁掛け」が紹介される
 この他古川勝三 台湾を愛した日本人 八田與一の生涯1989 p182-183に記載 

Satoshi Ito was born in Hanazono Village in 1891. He graduated from Tokyo School of Fine Arts, (present Tokyo National University of Fine Arts and Music). His art work “Husband and Wife” was accepted for the 10th Annual Art Exhibition sponsored by the Ministry of Education in 1916. His works were accepted for Exhibition of the Imperial Fine Art Academy 6 times. He was blamed strongly for his picture, “Contemplating Poet” accepted for the 8th Exhibition of the Imperial Fine Art Academy in 1927. The model of the picture was Mrs. Byakuren Yanagiwara who was a cousin of Taisyo Emperor, had run away with her lover from her husband, a rich owner of coal mines. She was morally criticized. He would not send his work to any exhibition since then. Satoshi went to Taiwan. Yoichi Hatta, his relative, offered a work to draw pictures of Chianan large scale irrigation facilities. Then Satoshi got a job to teach art at Beijing Art School. After World War II, he taught art at Togane junior high school. He drew many water color landscape pictures of the country. In his later years he drew a kind of abstract paintings of biological cells. He died in 1977 at his age of 88.