「天皇」と呼ばれる地は神社の山の頂上で、 この写真の中央奥のあたりである |
波自加彌神社誌の中の神社創建に関わる物語の続きの部分です。波自加彌神社が何故八幡村にあるのかを説明していますが、少し苦しい論法です。
卜部兼道郷の神運記にも加賀郡田近郷波自加彌の社は元正天皇の御代に鎮座し竹内宿祢を祀るとある。当社は往古より神明(天照大神)、諏訪明神、春日明神などを祀り、少彦名には木の薬師如来までもあった。特に毎月二日には近郷から諏訪社に参詣する人多く、市が立ったが、この(応神天皇の)御神影があってからは国民の守護神であるから、参拝する人が日夜に盛んになり、前からの神々を末社として波自加彌神社を産土神として尊敬するに至った。坊守の住むところも次第に家数も増え、その村を八幡村と称するので、神社も八幡村の神社と称するようになった。昔は神仏兼敬であったが、後に悉く焼失した。その後寛文10(1670)年11月、卜部兼道郷の門人となった出雲頭藤原正屋の代より専ら神事を行うこととなった。その後元禄(1703)年日向頭正治から当社の由来を卜部兼敬郷へ申請し、縁起及び奥書を申し受け、神前に収めた。
以上を天明6(1786)年8月和泉頭藤原正次へ申し渡したところである。いろいろなことを言い出す人もいるので、後々のためこれを神前に収め置くものである。
天保3(1832)年6月 隠者 北山
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