2019年4月12日金曜日

シロモジ

シロモジの花
この辺りで4月の初め、桜より少し早くシロモジの黄色の花が咲きます。花自体は小型ですが、木全体に花が付くので、なかなか見事です。幹は暗緑色で、他の木と比べて独特の色です。葉は竹に似ていて、落葉樹なのに冬にならないと落ちません。花が多い分、実もたくさんつき、どんどん広がっていきます。成長も早いようです。竹を倒して広葉樹の森にしようと思いますが、シロモジとかカラスザンショウのような柔らかい木が先に繁茂するので、ナラ、クヌギのような堅いが成長の遅い木が育ちにくい環境になってしまいます。今はシロモジやカラスザンショウを見つけ次第倒し、切株にラウンドアップ2倍液を塗って再生しないようにしています。
竹伐採の後のシロモジの群生
ところで、シロモジはこの辺りでこんなに繁茂しているのに、普通の植物図鑑には載っていません。どうにも分からないのでつてをたどってプロに聞いてみて初めて分かりました。検索では葉の形、幹の色、落葉常緑の区別などの条件を元に探すのですが、紙の本では条件を重ねられません。春の黄色の花、幹の色暗緑色、落葉高木、などと条件を重ねることはデジタルの得意なことです。どなたかこんな植物図鑑を作っていただきたいものです。
シロモジを伐る
シロモジの実

2019年4月8日月曜日

伊東哲の物語5 帰ってきた画

戎克(ジャンク)

北京西部大寧寺 古塔近辺写生
何か一つのことを始めるとする。おぼろげではあるけどその完結に向け、こつこつやっていると、その過程で予期せぬ発見があったり、ハプニングに出会ったりすることがあります。烏山頭ダム工事のタペストリーは発見であり、この戎克(ジャンク)と題する画と、中国で描かれた北京西部大寧寺と題する画が帰ってきたことは、確かにハプニングであった。
 2013年1月、焼津の竹田吉雄さんという和菓子屋さんから電話がかかってきた。「伊東哲さんの画の件でやっとこの電話番号にたどり着いた」とのこと。何のことだろうといぶかしく思った。竹田さんは3年くらい前に島田の骨董屋である絵を買ったそうだ。それが伊東哲の画ではないかという。そして親切なことに我が家まで持ってきてくれたのだ。「なんだか気になる画でずっと出所を探していたが、今日こうしてあるべきところに落ち着いて嬉しい」とまで言うのです。何というハプニングなのでしょう。
それは波立つ海に浮かぶ一艘の小さな船を描いたものです。1931、Itoh Satoshiとあります。裏書は「戎克」昭和九年九月二十八日於淡水作とある。
こつこつと伊東哲の跡を追ってきた私たちにとって、画も描かれた年代も裏書もすべて納得のゆくものです。1930(昭和5年)はタペストリー完成の年で、伊東哲は1934年、まだ台湾で嘉南大圳組合記念塔の壁画を描いていたりします(現時点で記念塔の壁画は確認されていません)。台湾のあちらこちらを巡ったことでしょう。画材をたくさん持っていたわけではありません。数枚の板の表と裏に描いたりしたのでしょう。重ね描きもしたことでしょう。日付や題名が削られたのはきっとそのせいでしょう。なぜこの画が、本人の手を離れ骨董屋などにあったのかは分かりません。台湾で日本人の誰かに上げたものが流れ着いたのかもしれません。いずれにせよ、伊東哲の生家に帰って来たことは奇跡です。大変うれしい出来事でした。
もう一つは最近親戚から帰って来た北京古都の画です。哲の姪(哲の兄平盛の娘で夫の叔母に当たる)は昭和22年に結婚しました。伊東哲は引き揚げて来たばかりで、実家の姪の結婚なのに何もお祝いとして上げるものはなかったようです。それで惜しげもなくあの大事なタペストリーとこの北京で描き、唯一持ち帰ることのできた画をプレゼントしたそうです。裏書は「昭和十九年十月於北京西部大寧寺 古塔近辺写生 伊東哲」。近くから見れば何が描かれているかよく分かりませんが、離れて見ると、ぐっと迫ってきて臨場感溢れる画です。いかにも伊東哲らしい画で、藝大の頃の風景画に比べ、対象の解体度はますます大きくなっています。大雑把に力強く捉えられているのです。美術学校教授でしたから北京でたくさん画を描いたに違いありません。が、引き揚げて来るときにはほとんど持ち帰ることができなかったことでしょう。持ち帰ることのできた画はこの小さな画を含め、あと何枚あるのだろう。貴重な絵が帰ってきて、叔母さんの好意に感謝です。もちろん、ギャラリー唯一の北京での画です(今のところこれ以外に北京での画は確認されていません)。
このようなハプニングはご褒美といえばおこがましいのですが、力づけられる出来事でした。あともう少し続けて、晩年、東金時代の伊東哲まで行ってみたいです。kantoramom記 

2019年4月7日日曜日

伊東哲(さとし)の物語 4  壁掛けが見つかった!

贈呈紀念和蝋描壁掛け嘉南大圳工事模様
物語(3)で2012年9月“台南 ウイークin 金沢”が開催されたことを書いた。この企画は八田與一没後70年を記念するイベントであるが、與一自身に関する遺品は少ない。我が家から、台湾の與一より伊東哲の兄、平盛(夫の祖父)宛ての手紙8通と、伊東哲と刻印されたダム完成記念メダルを提出したが、企画側は“目玉”になる何かを探していた。 
八田與一、台湾、伊東哲。このキーワードで私はひらめいた。1997年に石川県立美術館で開かれた『伊東哲と石川洋画の先駆者たち』展で見た、あの“テーブルクロス”と題されていた不思議な作品が、もしかして台湾を舞台にしたものではないかと。あの“テーブルクロス”は実に変だった。大きめの風呂敷サイズの布に山、川、汽車、パイナップル、ココナツ、椰子の木など南方系の植物、家並み、着物を着た日本の女性が日傘をさして歩いているかと思えば、チャイナ服の男たちが同時に歩いている。哲の夢想の世界かと思った。あの絵が台湾でのダム工事とその町の画なら、すんなり理解できる。私の心の片隅にまだ残っていたあの“テーブルクロス”の違和感が、“目玉”につながった。 
その後、台湾の伊東哲から兄、平盛宛の手紙を読み返した(我が家には古いものがいろいろ残っている!)。何と、哲がその壁掛けを何時、何のために、何枚作ったか、さらにその題名まで書いてある手紙があったのだ。この偶然に画家としての哲の心の叫びを聞いたように思われてならない。手紙にはこうある。 
昭和5年5月29日付け 台南州曾父郡烏山頭より
(略)贈呈紀念品蝋描壁掛嘉南大圳工事模様二十枚去る二十五日を以て完成。約三ヶ月の日数を要しました。内地から連れてきた男には二百円、他には各二十円づつ小生より賞与としてやりました。それぞれ近く帰国引上げののため準備を急いでいる模様です。
(略)一昨年の暮れこんな大きな仕事が私の前途に横たわってゐやうとは神ならぬ身のだれが知っいゐましたでせう。精神的には嘉南大圳五千万円の工事にも劣らざる可(べ)く、物的には一つの画室と二、三年分の私生活のほしょうとでした。神仏のひきあわせとありがたく思ふて居る次第であります。ひいては與一さんの甚大なる伝授、尚ひいてはなくなられた智証さんの御蔭が今日を生んでくれたものと深く心に銘して居ります。(以下略) 
嘉南大圳の工事の様子を描いた蠟けつ染め(先ず蝋液で輪郭を描き、染色してから熱で蝋を落としている。非常に細かく神経を使う作業であったに違いない)であること。工事そのものを絵に落とす際は、哲は與一より”甚大な伝授”を受けていること。幾人もの職人を使い3か月もかけて完成させた哲渾身の大作であったことがうかがえる。贈呈とは、たぶん工事完成に伴い、管理組合への贈呈ということではないか。現に今も嘉南農田水利会が維持管理している。 
パワーショベルが大地を掘っている。蒸気機関車が煙を吐いて土砂を運んでいる。堰堤では落とされた土砂に水が勢いよく放射されている。空(から)になった汽車が去ってゆく。レンガ工場の煙突から壮大な煙が渦巻いて空に舞う。作られたレンガは張り巡らされたロープウェイで山のずっと向こうに運ばれる。曾文渓からの放水口が小さく見える。台南の特徴的な植物、鳥、牛、豚、台湾ザルまで描かれている。たくさんの人々が行きかっている。工事事務所、職員の宿舎、マーケット、風呂屋、小学校、粉屋、クラブなどなどあの時あの場所のありとあらゆる事象が分かりやすく、見やすく、しかも美的に網羅されている。手紙の通り、本当に精魂込めた大作だ。(八田與一から直接伝授受けたダム工事図は正確な記録であるはずだ。) 
いくら絵だからといって、一気に何もかもが分かったわけではない。解読には何人もの人が関わった。80年以上も前の特殊なダム工事の画は、まさに“decode”ともいうべき暗号解読のような作業だった。『台湾を愛した日本人』という本がある。著者は古川勝三さんで、昭和50年代半ば、すでに忘れ去られていた八田與一のことを、赴任先の台湾で一人コツコツ調べ上げて著した。彼は壁掛けを見に飛んでこられた。彼によってずいぶん多くのことが分かった。金沢で長く顕彰活動を続けている中川外司さんと中川耕二さんも加わった。 
夫は壁掛けの拡大写真を作り、一つ一つ番号を打って、その説明を嘉南農田水利会に求めた。“台南 ウイーク in 金沢”直前に、思いがけず顔弘澈という人から実に詳しい解説が帰ってきた。ようやく壁掛けの全貌が見えたのである。八田與一はダム完成後、台北で技術者養成学校を開いたが、顔さんの父はその時の生徒だった。優秀だったらしく、與一も特別に配慮していたようだ。現在92才、ダム管理技術者として43年間、農田水利会に勤務した。顔さんは小さいころいつも父親と船でダム湖に乗り出し、管理の様子を見守ったそうだ。自分や家族の今があるのも、八田技師のお蔭だという。そんな訳で、“台南 ウイーク in 金沢”に間に合わせるため、時間制約の中でできる限りの解読をしてくれたのだ。92歳の父に聞き取りをしたり、自分の小さいころのイメージにも答えがあったようだ。八田技師がダム完成後まとめた『嘉南大圳新設事業概要』という本にもずいぶん助けられたそうだ。 
2013年5月、夫と私は初めて墓前祭ツアーに参加した。もっぱら絵の本物探しや検証の旅だった。伊東哲は対象をよくよく観察してデフォルメしているので一つ一つの特徴がよく分かる。彼の力量を再確認した思いだ。顔さんとも会うことができた。以来交信が続いている。彼は初めて画像データをみて、「これは最も完全な建設記録」だと驚いたという。次世代に伝える義務があるとして、彼は嘉南農田水利会の要請により“語り手のコース”の責任者を引き受けたそうだ。 
実に様々な人たちを巻き込んだ壁掛けである。工事を指揮した技師、工事に携わった労働者、メンテナンスに関わった技術者、記録画にとどめた画家、ほとんどの人たちが亡くなってしまったけれど、このダムは今も台湾の穀倉地帯を支え続けている。このダムの物語はこれからもたくさんの人々を巻き込んでゆくだろう。この壁掛けもきっと分かりやすく魅力的な一枚として耳目を集めるだろう。八田與一記念館で一枚の写真を見つけた。與一、洋装の外代樹夫人、一人置いて背の高い笑顔の哲。なんだか懐かしい人たちに出会ったような気がした。
中央の洋装女婿は外代樹夫人左ワイシャツネクタイ
は與一、外代樹夫人の右二人置いて哲

2013年5月 kantoramom記

付記
嘉南大圳とは台湾南部嘉南平原15万ヘクタールを灌漑する施設のことで、建設当時東洋一の貯水量を有する烏山頭ダムや全長16,000kmにおよぶ給排水路などからなる。これによって不毛の地であった嘉南平原は一大穀倉地帯となった。

伊東哲(さとし)の物語 3 台湾へ渡る

烏山頭ダム工事図  油彩 211x72cm
伊東哲は昭和2年第8回帝展出品作として林の中で詩作に耽る柳原白蓮を描いた。題して“沈思の歌聖”。入選はしたものの、狙っていた特選を逃し、揚句、伊東に対しては売名行為などという嫉妬に近い激しいバッシングを浴びせられた。他との妥協を最も嫌う伊東哲である。芸術においてはなおのこと。彼はついに画壇と決別してしまう。 
長兄平盛は弟哲の再起を願って、親戚であり朋友でもあり学友でもある八田與一に弟のことをしばし託した。当時八田與一はすでに烏山頭ダム工事の責任者として辣腕をふるっていた。八田與一に“招かれた”形で台湾に渡った伊東哲に対し、與一はフランス製の画具を豊富に与え、彼の画業の後押しをした。地理的にも中央画壇から遠く離れ、気候温暖な台湾の地で哲の精神も伸びやかになったようで、このころから彼の作品には、対象への大らかなディフォルメ、あるいは図案化といったものが見られるようになる。 
台湾での作品として、“八田與一像”と”ダム工事図“があり、現在も嘉南農田水利会会長室に飾られているという。その他、オランダ統治時代の楼閣〝赤かん楼”や、“働ける労働者”(未完)などがあるが、持ち帰った作品の多くは東京大空襲で焼けてしまったようだ。 
2012年9月、八田與一没後70年記念として“台南ウイークin 金沢”という金沢・台南の親善行事が開催された。“嘉南大州の父”と称され、台湾の人たちに今も敬愛されている八田與一の遺品と共に、伊東哲の描いた“八田與一像”と“ダム工事図”も里帰りした。特に“ダム工事図”はこれまで門外不出で、小さな写真でしか見ることができなかった。実物は本邦初公開である。 
初めて“ダム工事図”を目の当たりにしてそのスケールの大きさに圧倒された。やがてダムで潤うであろう赤茶けた大地が広がっている。遠景は見渡す限りの地平線と空である。工事現場を中心に何キロに及ぶ景色であろうか(ちなみに完成時の堰堤延長は1273メートルで貯水量世界一という)。こんなに大きな風景画を今まで見たことがない。ドイツから買い入れたという機関車が煙を高く吐きながら、土砂を積んでやって来る。堰堤となるところに後のメンテナンス用のコンクリート筒柱が4,5本そびえたつ。土砂を落とし終えた機関車が、また煙を吐いて小さく去ってゆく。中央手前の丘では人々が手作業で土砂を掻いている。画では人々は芥子粒のような一刷だ。これは、土砂を運び、そこに水をかけ水牛に踏ませて固めるという特異なダム工事(セミハイドロリックフィル工法)の記録画であると共に、あの時代の“証言”的な画でもあると思う。 
ものすごく躍動的なのだ。台湾を統合した日本が、何とか食糧難を排し、富国のため英知を集め一つの目標に向かう。日本人も、日本人となった現地人も力を合わせている。そういう時代の躍動感がおのずと画にも現れ出ているのだ。人々、木々、牛たちのディフォルメ的描写は、その気運にとてもマッチしている。 
これまで伊東哲の代表作は第2回帝展作品“高原”とされてきたが、この“ダム工事図”こそが彼の代表作ではないかと、私は思う。画壇を離れたことで世間の縛りが解け、哲自身の内面の大きさが絵の大きさと重なって見える。1か月後、2枚の画は再び嘉南農田水利会会長室に帰って行った。この催しを機にほとんど原画に近い複製画を、金沢の「ふるさと偉人館」で見ることが出来るようになったことは、幸いなことである。
2013年5月 kantoramom記

2019年4月5日金曜日

国府犀東は花園と関係深かった


 2019年4月1日に平成の次の元号が令和と決まったと報道され、年号に注目が集まりました。令和の考案者が誰であるかは厳重に秘密にされていますが、明治から平成までの元号の考案者は明らかになっています。明治の場合は菅原家が提出した複数の案の中から、新天皇がくじを引いて決めたんだそうですね。まだ報道合戦がない時代で、あまり騒がれなかった。大正の場合は内閣書記官室長嘱託の国府種徳(こくぶたねのり)が考案者だそうです。昭和は宮内省の吉田増蔵図書寮編修官の提案10案と国府種徳の5案があり、新天皇が決めたのだそうです。
八幡の親樹は加賀百万石前田候
の参勤交代を何度も見送った
ところで国府種徳についてです。国府種徳の号は犀東(さいとう)で犀川の東という意味で、実家は金沢市竪町といわれています。やはり金沢出身の詩人室生犀星は犀東の向こうを張って、犀川の西、西を星に変えて犀星と名乗ったそうです。犀東は大正、昭和にかけて活躍した宮廷漢詩人で日本各地に漢詩の詩碑があります。
国府犀東は花園村に関係が深かったようです。花園村の二日市と八幡の二つの集落が共同で守っている波自加彌神社について、四編の漢詩を書いています。一編は波自加彌神社の石段脇に石碑となっています。一編は筆者の家に掛け軸になっています。その署名に偶憶故山花園八幡祠舊事 犀東とまるで故郷のように書いています。そのほかの詩にも同様な署名があります。
波自加彌神社には鎌倉時代の作と言われる木造随身像があります。これは能登の彫刻家が二対を作成し、京都の男山八幡宮へ海路運んでいたが、途中河北潟沖で船が動かなくなった。そこで一対を波自加彌神社に奉納したところ動くことができたという伝説があります。その伝説を紹介している北國新聞1940年1月1日の記事の中にこの話は二日市出身の国府犀東が伝えているとあります。
その数年前には波自加彌神社の村社から郷社への昇格運動があり、国府犀東が尽力したことが記録に残っています。
大正という元号を考案した国府犀東が花園村に関係が深かったことが分かります。

2019年4月3日水曜日

桜山に桜を植える

倒した竹を片付けてスペースをつくる
 桜の会の皆さんと初めての桜植樹です。1.5m高さのソメイヨシノを10本植えました。かなり急傾斜の部分と、テラス状になった部分があります。昨年春に倒した竹がテラス状の部分に乱雑に積んであるので、整理して植える場所を作りました。これから夏に向かって、下草刈り、日照が続けば水遣り、害虫が発生すれば防虫など、世話が必要になります。今年は少し訓練を積んで、秋に追加でいろいろな種類の桜を植えようかと話しています。
桜苗を植えて添え木に結ぶ

2019年4月1日月曜日

自利利他の精神 八田與一の信条 4

八田與一

與一は1932年昭和7年にロータリークラブに加入し、入会の挨拶をしました。その時の挨拶の内容が残っています。台湾在住の文筆家片倉佳史氏が発見されたもので、非常に貴重なものと思われます。片倉佳史氏に感謝し、ここに引用すます。

ロータリークラブでの八田與一氏挨拶

     1932年昭和7年1月12日 
私は本夕入会して間も無く非常に愉快な家族会に列席し得ましたことを喜んで居りました。私はこれ迄嘉南大圳の計画をしまして、烏山頭で堰堤工事に従事して居りました。土木工事でやり損った場合には貯水池の決壊程災害の大なるものはありません。斯かる大責任を負わされたものは非常に研究し、且つ考えて、結局人生の問題に迄も立ち入りました。
 人間は何の為に生まれたか、何を為すべきか、動物は子孫の繁殖のため生まれるが、併し人間は夫婦より創り、而も子孫の繁栄を計るには他人即ち社会の繁栄を計らねばなりません。私は真宗の家庭で育ったが、仏教で云ふ自利利他は此のことである事がわかったように思います。
 自利、利他がわかり、差別無差別が真実わかった人が仏であると信ずるようになりました。私は未だロータリー倶楽部の目的は充分わからないが色々な話を承り、ロータリーの精神が自利利他にあるように考えさせられまして、入会させていただきました。


與一は、失敗すれば大災害を起こすかもしれない大工事を大きな責任を感じつつ行ったと言っています。そしてその背景に仏教の自利利他の精神を持って社会の繁栄を計ろうと考えたと述べています。ここでは詳しくは述べていないが、先の手紙に書かれている「一切平等極楽世界を目指す」という内容を踏まえながら話していると思われます。
嘉南大圳の当初計画は、7万ヘクタールの土地を灌漑する案でした。しかし、與一は嘉南平原全体の15万ヘクタール灌漑する案に変更することを提案し、それが最終的に採用されました。嘉南平原で利用できる水の量は、15万ヘクタール全部が同時に稲作をするには足りません。そこで與一は、「三年輪作給水法」を導入しました。農家はある年は稲作を、次の二年は甘蔗やその他の雑作物を耕作し4年目にまた稲作をする。それによって、嘉南平原のすべての農民が等しく恩恵を受けることができました。これも一切平等極楽世界を目指す與一の信念を実現したものではないでしょうか。
與一は仏教に基づき、差別や格差のない世界を目指したいと考えた。これを信念の基本に据えることにより、揺るぎない心でプロジェクトを指揮することができたのだと考えられます。
八田與一の没後七十年を過ぎているが今でも與一は多くの人々に敬愛されている。それは嘉南大圳による豊かな実りの故であるが、その背景にある與一のこのような精神が人々に伝わっているためでもあると思われる。