2019年4月7日日曜日

伊東哲(さとし)の物語 3 台湾へ渡る

烏山頭ダム工事図  油彩 211x72cm
伊東哲は昭和2年第8回帝展出品作として林の中で詩作に耽る柳原白蓮を描いた。題して“沈思の歌聖”。入選はしたものの、狙っていた特選を逃し、揚句、伊東に対しては売名行為などという嫉妬に近い激しいバッシングを浴びせられた。他との妥協を最も嫌う伊東哲である。芸術においてはなおのこと。彼はついに画壇と決別してしまう。 
長兄平盛は弟哲の再起を願って、親戚であり朋友でもあり学友でもある八田與一に弟のことをしばし託した。当時八田與一はすでに烏山頭ダム工事の責任者として辣腕をふるっていた。八田與一に“招かれた”形で台湾に渡った伊東哲に対し、與一はフランス製の画具を豊富に与え、彼の画業の後押しをした。地理的にも中央画壇から遠く離れ、気候温暖な台湾の地で哲の精神も伸びやかになったようで、このころから彼の作品には、対象への大らかなディフォルメ、あるいは図案化といったものが見られるようになる。 
台湾での作品として、“八田與一像”と”ダム工事図“があり、現在も嘉南農田水利会会長室に飾られているという。その他、オランダ統治時代の楼閣〝赤かん楼”や、“働ける労働者”(未完)などがあるが、持ち帰った作品の多くは東京大空襲で焼けてしまったようだ。 
2012年9月、八田與一没後70年記念として“台南ウイークin 金沢”という金沢・台南の親善行事が開催された。“嘉南大州の父”と称され、台湾の人たちに今も敬愛されている八田與一の遺品と共に、伊東哲の描いた“八田與一像”と“ダム工事図”も里帰りした。特に“ダム工事図”はこれまで門外不出で、小さな写真でしか見ることができなかった。実物は本邦初公開である。 
初めて“ダム工事図”を目の当たりにしてそのスケールの大きさに圧倒された。やがてダムで潤うであろう赤茶けた大地が広がっている。遠景は見渡す限りの地平線と空である。工事現場を中心に何キロに及ぶ景色であろうか(ちなみに完成時の堰堤延長は1273メートルで貯水量世界一という)。こんなに大きな風景画を今まで見たことがない。ドイツから買い入れたという機関車が煙を高く吐きながら、土砂を積んでやって来る。堰堤となるところに後のメンテナンス用のコンクリート筒柱が4,5本そびえたつ。土砂を落とし終えた機関車が、また煙を吐いて小さく去ってゆく。中央手前の丘では人々が手作業で土砂を掻いている。画では人々は芥子粒のような一刷だ。これは、土砂を運び、そこに水をかけ水牛に踏ませて固めるという特異なダム工事(セミハイドロリックフィル工法)の記録画であると共に、あの時代の“証言”的な画でもあると思う。 
ものすごく躍動的なのだ。台湾を統合した日本が、何とか食糧難を排し、富国のため英知を集め一つの目標に向かう。日本人も、日本人となった現地人も力を合わせている。そういう時代の躍動感がおのずと画にも現れ出ているのだ。人々、木々、牛たちのディフォルメ的描写は、その気運にとてもマッチしている。 
これまで伊東哲の代表作は第2回帝展作品“高原”とされてきたが、この“ダム工事図”こそが彼の代表作ではないかと、私は思う。画壇を離れたことで世間の縛りが解け、哲自身の内面の大きさが絵の大きさと重なって見える。1か月後、2枚の画は再び嘉南農田水利会会長室に帰って行った。この催しを機にほとんど原画に近い複製画を、金沢の「ふるさと偉人館」で見ることが出来るようになったことは、幸いなことである。
2013年5月 kantoramom記

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