2019年4月8日月曜日

伊東哲の物語5 帰ってきた画

戎克(ジャンク)

北京西部大寧寺 古塔近辺写生
何か一つのことを始めるとする。おぼろげではあるけどその完結に向け、こつこつやっていると、その過程で予期せぬ発見があったり、ハプニングに出会ったりすることがあります。烏山頭ダム工事のタペストリーは発見であり、この戎克(ジャンク)と題する画と、中国で描かれた北京西部大寧寺と題する画が帰ってきたことは、確かにハプニングであった。
 2013年1月、焼津の竹田吉雄さんという和菓子屋さんから電話がかかってきた。「伊東哲さんの画の件でやっとこの電話番号にたどり着いた」とのこと。何のことだろうといぶかしく思った。竹田さんは3年くらい前に島田の骨董屋である絵を買ったそうだ。それが伊東哲の画ではないかという。そして親切なことに我が家まで持ってきてくれたのだ。「なんだか気になる画でずっと出所を探していたが、今日こうしてあるべきところに落ち着いて嬉しい」とまで言うのです。何というハプニングなのでしょう。
それは波立つ海に浮かぶ一艘の小さな船を描いたものです。1931、Itoh Satoshiとあります。裏書は「戎克」昭和九年九月二十八日於淡水作とある。
こつこつと伊東哲の跡を追ってきた私たちにとって、画も描かれた年代も裏書もすべて納得のゆくものです。1930(昭和5年)はタペストリー完成の年で、伊東哲は1934年、まだ台湾で嘉南大圳組合記念塔の壁画を描いていたりします(現時点で記念塔の壁画は確認されていません)。台湾のあちらこちらを巡ったことでしょう。画材をたくさん持っていたわけではありません。数枚の板の表と裏に描いたりしたのでしょう。重ね描きもしたことでしょう。日付や題名が削られたのはきっとそのせいでしょう。なぜこの画が、本人の手を離れ骨董屋などにあったのかは分かりません。台湾で日本人の誰かに上げたものが流れ着いたのかもしれません。いずれにせよ、伊東哲の生家に帰って来たことは奇跡です。大変うれしい出来事でした。
もう一つは最近親戚から帰って来た北京古都の画です。哲の姪(哲の兄平盛の娘で夫の叔母に当たる)は昭和22年に結婚しました。伊東哲は引き揚げて来たばかりで、実家の姪の結婚なのに何もお祝いとして上げるものはなかったようです。それで惜しげもなくあの大事なタペストリーとこの北京で描き、唯一持ち帰ることのできた画をプレゼントしたそうです。裏書は「昭和十九年十月於北京西部大寧寺 古塔近辺写生 伊東哲」。近くから見れば何が描かれているかよく分かりませんが、離れて見ると、ぐっと迫ってきて臨場感溢れる画です。いかにも伊東哲らしい画で、藝大の頃の風景画に比べ、対象の解体度はますます大きくなっています。大雑把に力強く捉えられているのです。美術学校教授でしたから北京でたくさん画を描いたに違いありません。が、引き揚げて来るときにはほとんど持ち帰ることができなかったことでしょう。持ち帰ることのできた画はこの小さな画を含め、あと何枚あるのだろう。貴重な絵が帰ってきて、叔母さんの好意に感謝です。もちろん、ギャラリー唯一の北京での画です(今のところこれ以外に北京での画は確認されていません)。
このようなハプニングはご褒美といえばおこがましいのですが、力づけられる出来事でした。あともう少し続けて、晩年、東金時代の伊東哲まで行ってみたいです。kantoramom記 

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