贈呈紀念和蝋描壁掛け嘉南大圳工事模様 |
物語(3)で2012年9月“台南 ウイークin 金沢”が開催されたことを書いた。この企画は八田與一没後70年を記念するイベントであるが、與一自身に関する遺品は少ない。我が家から、台湾の與一より伊東哲の兄、平盛(夫の祖父)宛ての手紙8通と、伊東哲と刻印されたダム完成記念メダルを提出したが、企画側は“目玉”になる何かを探していた。
八田與一、台湾、伊東哲。このキーワードで私はひらめいた。1997年に石川県立美術館で開かれた『伊東哲と石川洋画の先駆者たち』展で見た、あの“テーブルクロス”と題されていた不思議な作品が、もしかして台湾を舞台にしたものではないかと。あの“テーブルクロス”は実に変だった。大きめの風呂敷サイズの布に山、川、汽車、パイナップル、ココナツ、椰子の木など南方系の植物、家並み、着物を着た日本の女性が日傘をさして歩いているかと思えば、チャイナ服の男たちが同時に歩いている。哲の夢想の世界かと思った。あの絵が台湾でのダム工事とその町の画なら、すんなり理解できる。私の心の片隅にまだ残っていたあの“テーブルクロス”の違和感が、“目玉”につながった。
その後、台湾の伊東哲から兄、平盛宛の手紙を読み返した(我が家には古いものがいろいろ残っている!)。何と、哲がその壁掛けを何時、何のために、何枚作ったか、さらにその題名まで書いてある手紙があったのだ。この偶然に画家としての哲の心の叫びを聞いたように思われてならない。手紙にはこうある。
昭和5年5月29日付け 台南州曾父郡烏山頭より
(略)贈呈紀念品蝋描壁掛嘉南大圳工事模様二十枚去る二十五日を以て完成。約三ヶ月の日数を要しました。内地から連れてきた男には二百円、他には各二十円づつ小生より賞与としてやりました。それぞれ近く帰国引上げののため準備を急いでいる模様です。
(略)一昨年の暮れこんな大きな仕事が私の前途に横たわってゐやうとは神ならぬ身のだれが知っいゐましたでせう。精神的には嘉南大圳五千万円の工事にも劣らざる可(べ)く、物的には一つの画室と二、三年分の私生活のほしょうとでした。神仏のひきあわせとありがたく思ふて居る次第であります。ひいては與一さんの甚大なる伝授、尚ひいてはなくなられた智証さんの御蔭が今日を生んでくれたものと深く心に銘して居ります。(以下略)
嘉南大圳の工事の様子を描いた蠟けつ染め(先ず蝋液で輪郭を描き、染色してから熱で蝋を落としている。非常に細かく神経を使う作業であったに違いない)であること。工事そのものを絵に落とす際は、哲は與一より”甚大な伝授”を受けていること。幾人もの職人を使い3か月もかけて完成させた哲渾身の大作であったことがうかがえる。贈呈とは、たぶん工事完成に伴い、管理組合への贈呈ということではないか。現に今も嘉南農田水利会が維持管理している。
パワーショベルが大地を掘っている。蒸気機関車が煙を吐いて土砂を運んでいる。堰堤では落とされた土砂に水が勢いよく放射されている。空(から)になった汽車が去ってゆく。レンガ工場の煙突から壮大な煙が渦巻いて空に舞う。作られたレンガは張り巡らされたロープウェイで山のずっと向こうに運ばれる。曾文渓からの放水口が小さく見える。台南の特徴的な植物、鳥、牛、豚、台湾ザルまで描かれている。たくさんの人々が行きかっている。工事事務所、職員の宿舎、マーケット、風呂屋、小学校、粉屋、クラブなどなどあの時あの場所のありとあらゆる事象が分かりやすく、見やすく、しかも美的に網羅されている。手紙の通り、本当に精魂込めた大作だ。(八田與一から直接伝授受けたダム工事図は正確な記録であるはずだ。)
いくら絵だからといって、一気に何もかもが分かったわけではない。解読には何人もの人が関わった。80年以上も前の特殊なダム工事の画は、まさに“decode”ともいうべき暗号解読のような作業だった。『台湾を愛した日本人』という本がある。著者は古川勝三さんで、昭和50年代半ば、すでに忘れ去られていた八田與一のことを、赴任先の台湾で一人コツコツ調べ上げて著した。彼は壁掛けを見に飛んでこられた。彼によってずいぶん多くのことが分かった。金沢で長く顕彰活動を続けている中川外司さんと中川耕二さんも加わった。
夫は壁掛けの拡大写真を作り、一つ一つ番号を打って、その説明を嘉南農田水利会に求めた。“台南 ウイーク in 金沢”直前に、思いがけず顔弘澈という人から実に詳しい解説が帰ってきた。ようやく壁掛けの全貌が見えたのである。八田與一はダム完成後、台北で技術者養成学校を開いたが、顔さんの父はその時の生徒だった。優秀だったらしく、與一も特別に配慮していたようだ。現在92才、ダム管理技術者として43年間、農田水利会に勤務した。顔さんは小さいころいつも父親と船でダム湖に乗り出し、管理の様子を見守ったそうだ。自分や家族の今があるのも、八田技師のお蔭だという。そんな訳で、“台南 ウイーク in 金沢”に間に合わせるため、時間制約の中でできる限りの解読をしてくれたのだ。92歳の父に聞き取りをしたり、自分の小さいころのイメージにも答えがあったようだ。八田技師がダム完成後まとめた『嘉南大圳新設事業概要』という本にもずいぶん助けられたそうだ。
2013年5月、夫と私は初めて墓前祭ツアーに参加した。もっぱら絵の本物探しや検証の旅だった。伊東哲は対象をよくよく観察してデフォルメしているので一つ一つの特徴がよく分かる。彼の力量を再確認した思いだ。顔さんとも会うことができた。以来交信が続いている。彼は初めて画像データをみて、「これは最も完全な建設記録」だと驚いたという。次世代に伝える義務があるとして、彼は嘉南農田水利会の要請により“語り手のコース”の責任者を引き受けたそうだ。
実に様々な人たちを巻き込んだ壁掛けである。工事を指揮した技師、工事に携わった労働者、メンテナンスに関わった技術者、記録画にとどめた画家、ほとんどの人たちが亡くなってしまったけれど、このダムは今も台湾の穀倉地帯を支え続けている。このダムの物語はこれからもたくさんの人々を巻き込んでゆくだろう。この壁掛けもきっと分かりやすく魅力的な一枚として耳目を集めるだろう。八田與一記念館で一枚の写真を見つけた。與一、洋装の外代樹夫人、一人置いて背の高い笑顔の哲。なんだか懐かしい人たちに出会ったような気がした。
中央の洋装女婿は外代樹夫人左ワイシャツネクタイ は與一、外代樹夫人の右二人置いて哲 |
2013年5月 kantoramom記
付記
嘉南大圳とは台湾南部嘉南平原15万ヘクタールを灌漑する施設のことで、建設当時東洋一の貯水量を有する烏山頭ダムや全長16,000kmにおよぶ給排水路などからなる。これによって不毛の地であった嘉南平原は一大穀倉地帯となった。
付記
嘉南大圳とは台湾南部嘉南平原15万ヘクタールを灌漑する施設のことで、建設当時東洋一の貯水量を有する烏山頭ダムや全長16,000kmにおよぶ給排水路などからなる。これによって不毛の地であった嘉南平原は一大穀倉地帯となった。
0 件のコメント:
コメントを投稿