2019年4月5日金曜日

国府犀東は花園と関係深かった


 201941日に平成の次の元号が令和と決まったと報道され、年号に注目が集まりました。令和の考案者が誰であるかは厳重に秘密にされていますが、明治から平成までの元号の考案者は明らかになっています。明治の場合は菅原家が提出した複数の案の中から、新天皇がくじを引いて決めたんだそうですね。まだ報道合戦がない時代で、あまり騒がれなかった。大正の場合は内閣書記官室長嘱託の国府種徳(こくぶたねのり)が考案者だそうです。昭和は宮内省の吉田増蔵図書寮編修官の提案10案と国府種徳の5案があり、新天皇が決めたのだそうです。
八幡の親樹は加賀百万石前田候
の参勤交代を何度も見送った
ところで国府種徳についてです。国府種徳の号は犀東(さいとう)で犀川の東という意味で、実家は金沢市竪町といわれています。やはり金沢出身の詩人室生犀星は犀東の向こうを張って、犀川の西、西を星に変えて犀星と名乗ったそうです。犀東は大正、昭和にかけて活躍した宮廷漢詩人で日本各地に漢詩の詩碑があります。
国府犀東は花園村に関係が深かったようです。花園村の二日市と八幡の二つの集落が共同で守っている波自加彌神社について、四編の漢詩を書いています。一編は波自加彌神社の石段脇に石碑となっています。一編は筆者の家に掛け軸になっています。その署名に偶憶故山花園八幡祠舊事 犀東とまるで故郷のように書いています。そのほかの詩にも同様な署名があります。
波自加彌神社には鎌倉時代の作と言われる木造随身像があります。これは能登の彫刻家が二対を作成し、京都の男山八幡宮へ海路運んでいたが、途中河北潟沖で船が動かなくなった。そこで一対を波自加彌神社に奉納したところ動くことができたという伝説があります。その伝説を紹介している北國新聞1940年1月1日の記事の中にこの話は二日市出身の国府犀東が伝えているとあります。
その数年前には波自加彌神社の村社から郷社への昇格運動があり、国府犀東が尽力したことが記録に残っています。
大正という元号を考案した国府犀東が花園村に関係が深かったことが分かります。

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