2019年3月30日土曜日

伊東哲(さとし)の物語 2 NHKエデュケーショナルがやって来た

自画像 東京美術学校卒業制作

沈思の歌聖 絵葉書
2007年は東京芸術大学創立120周年に当たり、卒業生の自画像展が開催された。NHKエデュケーショナルは芸大卒業生自画像に焦点を当てた特集番組を企画した。先ず企画チームスタッフが何の予備知識もなく自画像を見て、スタッフの目や心に訴えかけた自画像を選び、それを描いた作家の足跡を辿るという斬新な企画だった。その中の一つが無名の画家、伊東哲の自画像だったというのだ。
大正5年に描かれた彼の自画像は、ダークブラウンの毛皮の襟のついたマントを着、見るものに挑みかかるような鋭い眼光を向けている。優しさも穏やかさのかけらもない怖い顔である。そのポートレートを追って、NHKが哲の生家である我が家にも取材に来たのだ。NHKのロゴなどどこにも見当たらないバスに乗って5,6人のスタッフでやって来た。
彼らは千葉県に住む画家の令息や、石川県立美術館などでの取材を終えており、哲が描いた第八回帝展入選作“沈思の歌星”事件のことをすでに把握していた。我が家の伊東哲ミニギャラリーや、これまでの入選作が我が家に疎開して置いてあった場所などを取材した。晩年カレンダーの裏などに描いた細胞画や哲が台湾で描いた八田与一像、烏山頭ダム工事画の写真も収めた。
スキャンダラスな美人、柳原白蓮を描いたことで、哲は痛烈なバッシングを浴び画壇を去ったという話は、彼らNHKスタッフの最も興味とするところだった。何と言ってもストーリー性があるのだから。後にスタッフの一人河邑厚徳氏は著書『藝大生の自画像』(NHK出版)で「調べが進むにつれ、予想外のドラマが隠されていることが明らかになってきました。伊東は運命に翻弄され挫折した人物でした」と、ことの経緯を詳しく述べている。
問題の“沈思の歌星“は購入され、東京丸ビルに飾られていたが、戦災で焼失した。私の義父は制作当時、哲叔父宅に下宿していて絵の進み具合をその目で見た一人だった。“画面が三段になった変わった絵で、その真ん中の林で白蓮が、歌を作っている絵やった。わしが見た頃は最後の仕上げ段階やった”と、言っていた。
NHKの調査で、その絵のカラー絵葉書(当時展覧会で売られていたもの)が、白蓮の長女蕗冬さん宅に残されていることが分かった。(実は哲の後妻宅にも一枚残されていて、私と夫はすでに見ていた)。初めてその絵を見た時、私はボッチチェルリの“春”を連想した。背景に樹木があり、足元に草花が散らばり、詩作する白蓮がスッと立っている。義父が三段といっていたけれど、実は画面が縦に三分割されていたのだ。分かれ目は太い柱で、柱と柱の間の上部はアーチになっている。いや、額がそういう特別しつらえだったかもしれない。確かに変わっている。しかも白蓮はオレンジ色の着物に黄色の打掛を羽織って、かなり目立つ。実はこの打掛もスキャンダラスなものであることを私たちは初めて知った。
白蓮長女蕗冬さん宅でのNHK調査によって、その打掛は白蓮が彼女の伯母に当たる二位の局(明治天皇の側室で、大正天皇生母)から下賜されたものであったのだ。筑紫炭鉱王の妻であった白蓮が東京帝大生と駆け落ちし、夫への離縁状を新聞紙上に発表するというスキャンダルからすでに6年が経っていた。彼女は詩作だけではなく、徐々に女性解放運動に向いてゆく。白蓮はわざと天皇家由来の打掛を着て、女性を縛る社会への不屈の精神を現す自分を描いて欲しかったのだ。哲はそのことを承諾して描いたに違いない。ボッチチェルリの“春”にも右端に暗雲を暗示する天使が描かれている。哲も“春”が頭にあったのではないかと私は思う。暗示は大胆にも柱とアーチということだろう。ずばり女性を縛る社会の枠ということではなかったか。
NHKはその経緯を踏まえ「その意味では、画家として伊東は、無防備でイノセントでした」とし、数奇な運命に翻弄された画家ととらえた。それにしてはNHKスタッフの目に留まったほどの自画像の不敵さは何なのだという疑問が残る。はたして“無防備でイノセント”だったのだろうか。私は家に残されている、伊東哲の兄平盛の当時の日記を調べたり、帝展初入選時の哲の新聞コメントを探したりして、私なりに調べてみた。
大正5年10月19日の北國新聞に“非凡の画才”と題して、“伊東哲文展西洋画初入選”の記事がある。その中で彼の抱負や理想として兄平盛氏に宛てた哲の書信を紹介している。 「私が文展に入選するのは当然であります。もし落選したとしてもそれは私の技量と思想とが審査官諸士と全く違った方向に道を取ったという事実に帰着します」と書いている。不遜と言っていいほどの自信である。
問題の第8回帝展作品“沈思の歌星”当時の平盛日記(付記1)によれば、哲は第8回帝展では明らかに特選を狙っていたし、かなり自信もあったことがうかがえる。哲は5人兄弟の上から2番目。この兄弟は、学生の頃兄弟誌“山百合”を作っている。そこには哲は世間おもねることのない確立された自己を持つ人であったことが明らかに読み取れる。大正5年発行の第3号で、哲は“真の自己”(付記2)と題してこう書いている「吾々が真に従わなければならぬものは自己内心の真実においてである」と。
社会に迎合することなく,自己に忠実であることが大切と哲は主張している。“自分は内心そうおもうけど、世の中そうはいかないから”と、大方の人は自分擁護のため無意識にもダブルスンダートを持つ。が、伊東哲はそのことを最も嫌っている。自分に忠実であろうとする人間であることがよく分かる。
 柳原白蓮も全くそのような人であった。哲は白蓮の生き方やそれを縛るものに対する彼女の挑戦の思いもよく理解し共感したであろう。“沈思の歌星”は白蓮と哲共同の社会への挑戦状だったのだ。バッシングはむしろ当然の成り行きだったのだ。画壇からは“売名行為”ととられ、無能の画家からは妬みを受け、“お前はジャガイモのような田舎夫婦や農夫を描いておればいいのだ”と書かれ、白蓮は“変態性欲の狂女”と再び揶揄された。
 伊東哲はNHKが言うような無防備でイノセントでは決してなかったのだ。白蓮と共に社会や画壇と対峙したのだ。そこに彼の画家としての匠気がなかったわけではない。特選を狙うほどの気合のいれようだったということだろう。これでようやく見る者を射るような鋭い眼光の自画像と、“沈思の歌星”事件との整合性を見ることが出来た。
 取材を終えたNHKエデュケーショナルは、そのうちNHKスペシャルでも放送されるでしょうと言い置いて帰った。ところが数か月後、番組は芸大との共同制作となったため、伊東哲に関しては申し訳ないけど、一部だけの紹介になってしまうとの連絡を得た。NHKエデュケーショナルが最も興味を示したあの黄色の打掛が、その原因ではなかったのだろうかと私は推測する。天皇家に触れることは女性週刊誌ならいざしらず、NHK上部にとっては今なおとてもデリケートで、できるなら地雷を避けてソフトペタルでゆきたい問題なのだろう。NHKエデュケーショナルの調査で“沈思の歌星”に隠された意外な事実が浮かび上がった。しかしNHKの社会的縛りにより、それは消された。この皮肉な対比劇にNHKのいかにも日本的なダブルスタンダードを見た思いである。
(2013年2月satoyamachika記)
 付記1 兄平盛日記
昭和2年10月16日。明日は帝展の審査日なりと よき便あれかし。
昭和2年10月17日。東京より通信あり 特選候補なり乍ら至難という 魏を得て蜀を望む心地す。
昭和2年10月20日。帝展特選ははづれたるか如し 残念なれども欲が深うすぎるかも知れぬ。
昭和2年11月9日。國府氏 左の沈思の歌星に題する詩を送る。(國府氏とは國府犀東のこと、彼は隣村、二日市出身の宮廷漢詩人であり、平盛と親交があった。平盛は大変篤実な人で、長兄として終生弟たちの面倒をみた。帝展特選を逃し、落胆する弟を気遣い親交のあった國府犀東に頼んで励ましてもらっている。沈思の歌星に関する批評が気になり金沢の本屋で美術関連の雑誌を求めている。日記左に書かれた漢詩は省略する。内容は沈思の歌聖がどういった絵であるかを書き、最後に後の世に理解者が出るのを待て、というような消沈の哲を励ます漢詩である)
付記2 兄弟誌『山百合』第3号の中から
私に於いては私はいつでも赤裸の私自身を語ることなしに一語も成すことが出来ないのである。私の書くことは間違っているかもしれない私にとって私が心から信じたことのみを書く(中略) 悲しむべき両者の(自分と他の兄弟のこと)この相違は永久に調和し融合する時期がこないであろう。私はこの私の見方を正統とし益々斯の如き素質の生長を望んでいるのに反し諸君は非社交的不合理な言葉として又考えとして私とは全然反対の立場に居られるのである。『多数が悪いと見たならばその行為を治すのが社会である』と或る人が言うだろう、然しこれは最もくだらぬ常識的解釈であって一般階級の上に出ることが出来ぬ。これは進歩なき社会の状態である。社会は絶えざる進歩の道程である(中略)社会は同一の状態持続でないことだけは事実である。(中略)吾々が真に従はなければならぬものは自己内心の真実においてである。これから発したものが最も尊敬すべきものである、芸術に於いて最も然りである」

ある洋画家との出会い 1 kantoramomエッセイ

私の家にはある洋画家の絵があちこちに飾ってあります。居間の一角には、ゆるやかな起伏をみせて広がる春の野で一頭の馬がのんびり草をはんでいる絵が掛かっています。ソファの後ろの壁には、これも馬の絵ですが、同じ構図の絵を対で飾ってあります。一方は傾きはじめた大きな太陽の下、急いで荷を運ぶ荷馬車の絵です。西日に人も馬もまぶしく揺れてみえます。もう一方は、日が落ちてしまった後、仕事を終えて家路を急ぐ人と馬のシルエットが茜の残照にくっきり浮かびあっています。同じ風景を時系列で描いているのです。
 玄関ホールの絵は季節ごとに変わります。お正月は、松並みの向こうにほんの小さく描かれた鳥居の絵。春は満開の桜並木の絵。手前の池にも映えていっそう華やかです。茶屋の暖簾の白と毛氈の赤が愛らしい。夏は海辺に浮かぶ一艘の船。秋には、収穫を終え重い荷車を引いて月夜を急ぐ農夫と農耕牛の絵です。
 いずれの絵も対象を大きくディフォルメし印象を力強く、さらっと描いています。小さめの画用紙に描かれた水彩画ですが、そこに描かれた自然はゆったりと広く、時間はのんびり流れています。どれも私の大好きな絵です。一日に何度も見やり、忙しい私の心もふと立ち止まりゆったりするのです。
 画家の名は伊東哲。明治二十四年石川県河北郡花園村生まれ。石川県で初めて文展(日展の前身)洋画部門で入選を果たした石川洋画の先駆的画家です。初入選は東京美術学校(現、東京芸大)在学中のことでした。その後も度々入選を重ね将来を嘱望されていたそうです。が、突如彼は中央画壇を去るのです。第八回帝展入選作は「沈思の歌聖」と題する絵で、森の中で詩作にふける柳原白蓮を描いた絵だったそうです。当時マスコミを賑わせるような“不道徳な女”をモデルにしたことで、画壇の不興を買ったのです。売名行為などという中傷を浴びたのです。画壇を去った彼は、以後画壇に属することなく、制作の場を台湾、北京に移し、敗戦後は千葉県流山中学校の美術教師となり、死ぬまで絵を描き続けました。東京大空襲で何百枚という油絵を焼失し、また夫人や長男に先立たれ、不遇な生涯でした。
 伊東哲は夫の祖父の弟です。伊東の家は辿れば平安時代までさかのぼることができるらしい。その昔、京都男山八幡宮の荘園管理のためこの地に赴任したのが始まりだそうで、以来、連綿とここ金沢市の北端の山あいに暮らし続けている。蔵や屋根裏はあたかもタイムカプセルのようです。昔の人が袖を通したであろうかび臭い古い綿入れ着物、明治の人が書き残した手紙の束、ガラス乾板の写真ネガ。ここでは時間が止まっている。
 そんな中にこれらの絵もあったのです。箪笥の裏に落ちていたり、その辺に埃をかぶって無造作に置かれていたりしていました。富士市の我が家に借りてきて楽しんでいるうちに、魅了されていったのです。このような自然や人間に対する深くて優しい洞察力と力強い表現力を持つ画家のことをもっと知りたいと思いました。舅に昔の話を聞いたり、文展、帝展入選画が寄贈されているという石川県立美術館を訪ねたりして、前述のようなことを知ったのです。
 毎日これらの絵を見ているうちに、彼の画業を何とか子供たちや、できるならその後の世代にも残し伝えたいと思うようになりました。親戚などに残されている絵を訪ね歩き、写真に収めてゆきました。ようやく手製のささやかな画集ができたのは平成七年春のことでした。彼の絵に出会ってから七、八年も経っていました。
 県立美術館から“伊東哲を知る貴重な資料”と、思いがけない評価を受けました。そして、とうとう平成九年『伊東哲と石川洋画の先駆者たち展』という晴れがましい展覧会が開催されることになったのです(於石川県立美術館)。埋もれた画家のわずかに残る作品が、日の目を見ることになったのです。代表作『高原』の女性たちがまぶしそうに輝いて見えました。我が家の水彩画もその末席を飾りました。
 人生には時に思いがけない出会いがあるものですね。もう亡くなった画家とその絵にこうして出会い、私の心が揺さぶられている。一日の仕事を終えて、夕焼け空を行く農夫と農耕馬。労働の後の夕日はやさしく柔らかい。「明日はどんな日になるか誰にも分からない。けれど、明日も働こう。明日の夕暮れも穏やかなれ」とその絵は語っているようです。世に媚びず、描くことだけに身をゆだねた彼の一生が語りかけているように思われます。
(1995年 kantoramom記) 


2019年3月29日金曜日

農夫(1912年)、老人(1916年)

農夫(1912年) 石川県立美術館蔵
老女と同じ時期の作品で、家族や近所の人をモデルに描いた習作の一枚と思われます。なたを持った農夫が地面に座っています。日焼けしていて毎日働いている様子ですが鋭い目をしています。モデルは伊東忠太郎と言われています。
老人(1916年)

下の絵も近所の農夫をモデルに描いたものと思われます。手は節くれだっていて、いかにも働き者の様子です。この時期の哲は家族や近所の人をモデルに農家や漁村の働く人をしっかり描き込んでいます。人物の内面をも捉えるような力量を持っているように思われます。

2019年3月28日木曜日

老女 つね像

老女 モデルは哲の祖母つね 石川県立美術館蔵
老女と題されたこの絵のモデルはこの絵を描いた伊東哲の祖母つねです。13代(伊東)平右衛門夫妻には子供がいなかったので、妻の寿々は自分の実家の今町村(八田)四郎兵衛から寿々の姪に当たる11歳のつねを養女にもらいました。幕末安政元年、1854年のことです。つねが15才の時、隣の二日市村亀田治兵衛から平右衛門の甥にあたる外次郎を婿に迎えました。外次郎は後に14代伊東平右衛門を名のります。この二人はしっかり者でよく働いたようで家産も増え、伊東家がもっとも繁栄したころです。哲の兄平盛は明治39年正月の日記に「鬼婆も屠蘇三杯機嫌よし」と俳句を書いていて、気が強かったことをうかがわせます。
14代平右衛門とつね 1913年

つねは八田與一の叔母にあたり、與一と平盛、哲兄弟との深い交流の基礎となりました。14代平右衛門は大正2年1913年に74歳で、つねは大正11年1922年に77歳で没しました。

2019年3月26日火曜日

第10回文展(1916年)入選作 夫婦

夫婦 油彩 大正5年(1916)
90.5
x117.0 石川県立美術館蔵
第10回文展入選(初入選)


この絵は伊東哲が初めて文展に入選した作品「夫婦」です。この時哲はまだ東京美術学校在学中で、夏季休暇を利用して富山県氷見に滞在し氷見浦の漁師夫婦を描いたものです。田舎の働き者で実直そうな夫婦の実像が伝わるようです。

八幡村の秋祭り

正八幡宮祭禮 祭旗

土蔵の長持ちの中から古めかしい祭旗が出てきた。巾は普通の反物の巾(36センチ余り)で、長さは4mとまるで帯のように長い。風雨、日光に晒され裾の方はボロボロで、白地はすっかり褪せて灰色である。「正八幡宮祭禮 文久二壬戌(みずのえいぬ)暦后八月吉祥 八幡邑(むら)若連中」と墨書きされている。文久二年は1862年。150年前の祭旗である。恐らくその時の秋祭りがまだ踏襲されていたと思われる昭和10年代の秋祭りの写真も出てきた。村の鎮守の神様のめでたい祭り日の様子を、古希を迎えた夫の記憶も加えてここに書き留めたい。 

1930年頃の秋祭り風景
 この村の神社の名は、波自加彌(はじかみ)神社(この神社は八幡村と隣の大きな二日市村で持っている)。全国で唯一、生姜の神様というので最近、急に有名になってきた。この辺りは1500年代、蓮如上人の北国御化導で人々は一斉に浄土真宗の門徒になり、以来熱心な蓮如さん信奉の村である。家々の仏壇は立派だけど、神棚は隠すかのようにごくごく隅に置かれている。我が家では二階の一室の戸袋に当たる場所に入れ込んであり、普段は目にしない。 
獅子舞


 そういう村であり、家であっても秋祭りとなると普段と違った。二,三日前から家の外掃除が始まる。草取りをし、掃き清める。祭りは二日がかりの盛大なものでる。陰暦八月は今の九月、稲刈り直後の秋祭りである。新しい稲わらで縄をない、紙垂を挟む。このロープを家々の周囲に張り巡らす。普段の俗界が神聖な場に転ずる。神輿が通る道には山から取ってきた赤土を、1mほどの間隔で一握りずつ置いてゆく。道はこれで清められたことになる(まるで馬糞のようではないか!)。夕方には玄関に掛けた“御神燈”に明かりが灯る。村の道端の“御神燈”も辺りをかすかに照らす。御神灯には「家内安全」とか「五穀豊穣」とか思い思いの言葉や絵が描かれている。一年の農作業が終わり、神を迎える準備も整った。ほの暗い宵の口、揺れる明かりに人々の心は安らぎ和んだことだろう。

 当日の早朝に“旗棒立て”がある。何人もの男衆で巨大な祭旗を立てる。たった八軒のこの村でも2本は立った。あちこちの村にも旗が立つ。昔はビルもなければ、新興住宅地もない。山と田ばかりの広々とした風景の中に、その日は何本もの旗がどこからでも見えたはずだ。旗は『神徳永無窮』であったり、神宮皇后にまつわる絵物物語であったりした。

 笛太鼓の神事の中、いよいよご神体が神輿に移される。八人の屈強の若衆が神輿を担ぐ。山から降ろされた神輿は、獅子舞を伴いながら、村々の一軒一軒を経巡るのである。途中、農業用水を渡るにも、この時だけ神橋(カミバシ)を渡る。日常、人々が利用する橋は人橋(ヒトバシ)と言われた。神輿が家に到着すると、半紙を敷いた丸盆に小高く盛った新米と、初穂料を供える。神主から神酒を受けその年の豊穣に感謝し、またそれぞれの願いを込めて飲み干す。健康に育つ事を願って、赤ん坊や小さな子供たちが神輿の下をくぐる。

 その後、賑やかな獅子舞の登場となる。花を打つと、酒の入った若者が大仰ににぎにぎしく感謝の口上を述べ、獅子と、棒振りが対峙して舞う。いつの時代も、子供が真剣に舞う棒ふりはかわいらしく、人々の笑みを誘う。夫の祖父が健在だったころは、我が家の門は開け放たれ神輿は庭深く入り、獅子舞は庭で舞ったそうだ。人々を座敷に上げ、酒肴を振舞った。
 
 折しも、今年のノーベル医学生理学賞は山中伸弥京大教授である。つい先ごろもヒッグス粒子の存在が確認された。人間の智恵は底知れないように見える時代になったけど、人は相変わらず死すべき運命を背負いながら、近未来さえ予測できない。古来変わらぬこの人間ゆえの不安定さが、スーパーパワーを求めてきたのではないか。縄文以来の様々な呪術もそのことと無関係ではないだろう。

 6世紀に日本にもたらされた仏教は、それまでの呪術とはまったく違い、新しい哲学的解決を人々に(特に支配者層に)与えた。次々に寺院が麗々しく建てられるようになった。なんだか“腑に落ちない感”が人々の心に巣食う。“こうじゃないんだよなあ、なんか違うなあ”。そんな思いが人々に神社を作らせたそうだ。仏教の興隆に伴って神社が出現したというのは興味深い史実である。1万年以上かけて日本人に染みついた縄文的体質が、鳥居、しめ縄、紙垂、狛犬、キツネ、おみくじ、森を必要としたのだそうだ。神社は現代になお生きる呪術の場なのではないだろうか。あるいは現代に残る縄文かも知れない。

 そんな訳で、加賀藩が特別に注視し用心したという、浄土真宗に染まったこの辺りでも、それはそれ、これはこれで両立するのであろう。かくて「祓い給え、清め給え」を謳う秋祭りも終わり、次はお寺の報恩講、11月には村報恩講があり、今度は寺の僧が家々を巡るのだ。外国人が驚く私たちの柔軟さも日本人なりの歴史的理由がある訳だ。 

付記1
 波自加彌神社はもとは河北潟から越中へ続く山越えの途中の四坊高坂村にあった。戦火(多分源平合戦)で焼かれ、この村の正八幡宮に身を寄せた。後“庇を借りて母屋を取る”がごとくになった。文久のころには正八幡宮の名も使われていたのだろう。
付記2
 四坊高坂村は、四坊すなわち四つのお寺がある栄えた村だったのだろう。このあたりは田近郷で、河北潟から越中へ行く道を田近道あるいは田近越えという。波自加彌は“田近の神”がなまったものとも考えられる。現に波自加彌神社の神主の名は田近さんである。
(2012年10月 satoyamachika記)

2019年3月24日日曜日

里山暮らしのスタート 2004年えこナビ掲載

筍 satoyamachika画
夫の定年退職に伴い、33年振りに故郷金沢にUターンした。もうすぐ津幡という金沢市北端の山あいで、老両親は首を長くして私達の帰郷を待っていた。古い家は明治の面影を残す、典型的な“田の字型”田舎家で、私達の同居は難しい。同じ敷地には土蔵と今は使われず朽ちかけている昔の米土蔵が連なって建っている。古い農具や、梅干し、味噌置き場になっていた米土蔵の方を改装することにした。朽ち落ちていた床を張り替え、雨漏りする屋根もふき替え、南側に天井まで届く長窓を開けた。それに、片隅に箱を置くようにトイレ、風呂、洗面、ミニキッチンなど水周りをプラス。これが、私達熟年夫婦と猫2匹の終の棲家である。
この米土蔵は昔この家が地主として最も栄えた頃に建てられたそうだ。築110年になるという。太い梁、柱、垂木などには昔の大工の跡が残っている。今だったらボルトか何かで止めるところには、両方の木にまたがるようにいわば“木ボルト”が深く差し込まれている。あちこちに墨壺で引いた線が残っている。柱の隅には墨で書かれた番号が残る。時に、墨をこぼした跡まであって、何だか大工の汗まみれの息づかいまで聞こえてくようだ。壁は巾の広いクサマキで、その木肌は当時のままで艶やかだ。
四つある小窓には、土蔵を包む“鞘(さや)”のガラス窓、鉄格子、ネズミよけの網の戸、今度取り付けた網戸、木窓と5重装備だ。こんな小窓だけれど、月明かりが木立の向こうに茫とかすんで見えたり、朝日の紫や、夕日の茜に染まった光が射し込んだり、今は新緑が美しくのぞき見える。
この里山で、先々代あたりまで食はもちろん、時に衣や住までもその恵みに依って成る暮らしが繰り広げられてきた。桑を育て蚕を飼い、糸を紡ぎ、織り、縫った。味噌、醤油はもちろん、自家製の茶まで作っていたそうだ。海から海水を運んで大釜で火を焚き塩も作った。その大きな甕は今も残っている。そんな父祖伝来の手触り感のある生活を私達も体験してみたい。この歳ではほんのさわりだけになるだろうが・・・それでもこれまでのサラリーマン家庭の都会くらしとは別の何かがありそうな気がする。例えば生き物としての人間の感覚、充足感といったものを味わうことができるかもしれない。
さて、どのような日々が展開されるのだろうか。窓の外には繁茂し過ぎた孟宗竹が見える。
木々も伸び放題で近所迷惑になっている。山から染み出す水が敷地まで迫っている。仕事は山積みだ。まずは竹用鋸やチェンソー、チェンソー目立て器を買ったが、その前にマニュアルは読破が待っている!ともかくもこうして、にわか木こり、にわか農婦の生活がスタートした。随時山里便りを発信できれば幸いです。 kantoramom記 いしかわ環境パートナシップ県民会議刊「えこナビ」1号2004年