2019年3月30日土曜日

ある洋画家との出会い 1 kantoramomエッセイ

私の家にはある洋画家の絵があちこちに飾ってあります。居間の一角には、ゆるやかな起伏をみせて広がる春の野で一頭の馬がのんびり草をはんでいる絵が掛かっています。ソファの後ろの壁には、これも馬の絵ですが、同じ構図の絵を対で飾ってあります。一方は傾きはじめた大きな太陽の下、急いで荷を運ぶ荷馬車の絵です。西日に人も馬もまぶしく揺れてみえます。もう一方は、日が落ちてしまった後、仕事を終えて家路を急ぐ人と馬のシルエットが茜の残照にくっきり浮かびあっています。同じ風景を時系列で描いているのです。
 玄関ホールの絵は季節ごとに変わります。お正月は、松並みの向こうにほんの小さく描かれた鳥居の絵。春は満開の桜並木の絵。手前の池にも映えていっそう華やかです。茶屋の暖簾の白と毛氈の赤が愛らしい。夏は海辺に浮かぶ一艘の船。秋には、収穫を終え重い荷車を引いて月夜を急ぐ農夫と農耕牛の絵です。
 いずれの絵も対象を大きくディフォルメし印象を力強く、さらっと描いています。小さめの画用紙に描かれた水彩画ですが、そこに描かれた自然はゆったりと広く、時間はのんびり流れています。どれも私の大好きな絵です。一日に何度も見やり、忙しい私の心もふと立ち止まりゆったりするのです。
 画家の名は伊東哲。明治二十四年石川県河北郡花園村生まれ。石川県で初めて文展(日展の前身)洋画部門で入選を果たした石川洋画の先駆的画家です。初入選は東京美術学校(現、東京芸大)在学中のことでした。その後も度々入選を重ね将来を嘱望されていたそうです。が、突如彼は中央画壇を去るのです。第八回帝展入選作は「沈思の歌聖」と題する絵で、森の中で詩作にふける柳原白蓮を描いた絵だったそうです。当時マスコミを賑わせるような“不道徳な女”をモデルにしたことで、画壇の不興を買ったのです。売名行為などという中傷を浴びたのです。画壇を去った彼は、以後画壇に属することなく、制作の場を台湾、北京に移し、敗戦後は千葉県流山中学校の美術教師となり、死ぬまで絵を描き続けました。東京大空襲で何百枚という油絵を焼失し、また夫人や長男に先立たれ、不遇な生涯でした。
 伊東哲は夫の祖父の弟です。伊東の家は辿れば平安時代までさかのぼることができるらしい。その昔、京都男山八幡宮の荘園管理のためこの地に赴任したのが始まりだそうで、以来、連綿とここ金沢市の北端の山あいに暮らし続けている。蔵や屋根裏はあたかもタイムカプセルのようです。昔の人が袖を通したであろうかび臭い古い綿入れ着物、明治の人が書き残した手紙の束、ガラス乾板の写真ネガ。ここでは時間が止まっている。
 そんな中にこれらの絵もあったのです。箪笥の裏に落ちていたり、その辺に埃をかぶって無造作に置かれていたりしていました。富士市の我が家に借りてきて楽しんでいるうちに、魅了されていったのです。このような自然や人間に対する深くて優しい洞察力と力強い表現力を持つ画家のことをもっと知りたいと思いました。舅に昔の話を聞いたり、文展、帝展入選画が寄贈されているという石川県立美術館を訪ねたりして、前述のようなことを知ったのです。
 毎日これらの絵を見ているうちに、彼の画業を何とか子供たちや、できるならその後の世代にも残し伝えたいと思うようになりました。親戚などに残されている絵を訪ね歩き、写真に収めてゆきました。ようやく手製のささやかな画集ができたのは平成七年春のことでした。彼の絵に出会ってから七、八年も経っていました。
 県立美術館から“伊東哲を知る貴重な資料”と、思いがけない評価を受けました。そして、とうとう平成九年『伊東哲と石川洋画の先駆者たち展』という晴れがましい展覧会が開催されることになったのです(於石川県立美術館)。埋もれた画家のわずかに残る作品が、日の目を見ることになったのです。代表作『高原』の女性たちがまぶしそうに輝いて見えました。我が家の水彩画もその末席を飾りました。
 人生には時に思いがけない出会いがあるものですね。もう亡くなった画家とその絵にこうして出会い、私の心が揺さぶられている。一日の仕事を終えて、夕焼け空を行く農夫と農耕馬。労働の後の夕日はやさしく柔らかい。「明日はどんな日になるか誰にも分からない。けれど、明日も働こう。明日の夕暮れも穏やかなれ」とその絵は語っているようです。世に媚びず、描くことだけに身をゆだねた彼の一生が語りかけているように思われます。
(1995年 kantoramom記) 


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