
いずれの絵も対象を大きくディフォルメし印象を力強く、さらっと描いています。小さめの画用紙に描かれた水彩画ですが、そこに描かれた自然はゆったりと広く、時間はのんびり流れています。どれも私の大好きな絵です。一日に何度も見やり、忙しい私の心もふと立ち止まりゆったりするのです。

伊東哲は夫の祖父の弟です。伊東の家は辿れば平安時代までさかのぼることができるらしい。その昔、京都男山八幡宮の荘園管理のためこの地に赴任したのが始まりだそうで、以来、連綿とここ金沢市の北端の山あいに暮らし続けている。蔵や屋根裏はあたかもタイムカプセルのようです。昔の人が袖を通したであろうかび臭い古い綿入れ着物、明治の人が書き残した手紙の束、ガラス乾板の写真ネガ。ここでは時間が止まっている。
そんな中にこれらの絵もあったのです。箪笥の裏に落ちていたり、その辺に埃をかぶって無造作に置かれていたりしていました。富士市の我が家に借りてきて楽しんでいるうちに、魅了されていったのです。このような自然や人間に対する深くて優しい洞察力と力強い表現力を持つ画家のことをもっと知りたいと思いました。舅に昔の話を聞いたり、文展、帝展入選画が寄贈されているという石川県立美術館を訪ねたりして、前述のようなことを知ったのです。
毎日これらの絵を見ているうちに、彼の画業を何とか子供たちや、できるならその後の世代にも残し伝えたいと思うようになりました。親戚などに残されている絵を訪ね歩き、写真に収めてゆきました。ようやく手製のささやかな画集ができたのは平成七年春のことでした。彼の絵に出会ってから七、八年も経っていました。
県立美術館から“伊東哲を知る貴重な資料”と、思いがけない評価を受けました。そして、とうとう平成九年『伊東哲と石川洋画の先駆者たち展』という晴れがましい展覧会が開催されることになったのです(於石川県立美術館)。埋もれた画家のわずかに残る作品が、日の目を見ることになったのです。代表作『高原』の女性たちがまぶしそうに輝いて見えました。我が家の水彩画もその末席を飾りました。
人生には時に思いがけない出会いがあるものですね。もう亡くなった画家とその絵にこうして出会い、私の心が揺さぶられている。一日の仕事を終えて、夕焼け空を行く農夫と農耕馬。労働の後の夕日はやさしく柔らかい。「明日はどんな日になるか誰にも分からない。けれど、明日も働こう。明日の夕暮れも穏やかなれ」とその絵は語っているようです。世に媚びず、描くことだけに身をゆだねた彼の一生が語りかけているように思われます。
(1995年 kantoramom記)
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