2019年3月26日火曜日

八幡村の秋祭り

正八幡宮祭禮 祭旗

土蔵の長持ちの中から古めかしい祭旗が出てきた。巾は普通の反物の巾(36センチ余り)で、長さは4mとまるで帯のように長い。風雨、日光に晒され裾の方はボロボロで、白地はすっかり褪せて灰色である。「正八幡宮祭禮 文久二壬戌(みずのえいぬ)暦后八月吉祥 八幡邑(むら)若連中」と墨書きされている。文久二年は1862年。150年前の祭旗である。恐らくその時の秋祭りがまだ踏襲されていたと思われる昭和10年代の秋祭りの写真も出てきた。村の鎮守の神様のめでたい祭り日の様子を、古希を迎えた夫の記憶も加えてここに書き留めたい。 

1930年頃の秋祭り風景
 この村の神社の名は、波自加彌(はじかみ)神社(この神社は八幡村と隣の大きな二日市村で持っている)。全国で唯一、生姜の神様というので最近、急に有名になってきた。この辺りは1500年代、蓮如上人の北国御化導で人々は一斉に浄土真宗の門徒になり、以来熱心な蓮如さん信奉の村である。家々の仏壇は立派だけど、神棚は隠すかのようにごくごく隅に置かれている。我が家では二階の一室の戸袋に当たる場所に入れ込んであり、普段は目にしない。 
獅子舞


 そういう村であり、家であっても秋祭りとなると普段と違った。二,三日前から家の外掃除が始まる。草取りをし、掃き清める。祭りは二日がかりの盛大なものでる。陰暦八月は今の九月、稲刈り直後の秋祭りである。新しい稲わらで縄をない、紙垂を挟む。このロープを家々の周囲に張り巡らす。普段の俗界が神聖な場に転ずる。神輿が通る道には山から取ってきた赤土を、1mほどの間隔で一握りずつ置いてゆく。道はこれで清められたことになる(まるで馬糞のようではないか!)。夕方には玄関に掛けた“御神燈”に明かりが灯る。村の道端の“御神燈”も辺りをかすかに照らす。御神灯には「家内安全」とか「五穀豊穣」とか思い思いの言葉や絵が描かれている。一年の農作業が終わり、神を迎える準備も整った。ほの暗い宵の口、揺れる明かりに人々の心は安らぎ和んだことだろう。

 当日の早朝に“旗棒立て”がある。何人もの男衆で巨大な祭旗を立てる。たった八軒のこの村でも2本は立った。あちこちの村にも旗が立つ。昔はビルもなければ、新興住宅地もない。山と田ばかりの広々とした風景の中に、その日は何本もの旗がどこからでも見えたはずだ。旗は『神徳永無窮』であったり、神宮皇后にまつわる絵物物語であったりした。

 笛太鼓の神事の中、いよいよご神体が神輿に移される。八人の屈強の若衆が神輿を担ぐ。山から降ろされた神輿は、獅子舞を伴いながら、村々の一軒一軒を経巡るのである。途中、農業用水を渡るにも、この時だけ神橋(カミバシ)を渡る。日常、人々が利用する橋は人橋(ヒトバシ)と言われた。神輿が家に到着すると、半紙を敷いた丸盆に小高く盛った新米と、初穂料を供える。神主から神酒を受けその年の豊穣に感謝し、またそれぞれの願いを込めて飲み干す。健康に育つ事を願って、赤ん坊や小さな子供たちが神輿の下をくぐる。

 その後、賑やかな獅子舞の登場となる。花を打つと、酒の入った若者が大仰ににぎにぎしく感謝の口上を述べ、獅子と、棒振りが対峙して舞う。いつの時代も、子供が真剣に舞う棒ふりはかわいらしく、人々の笑みを誘う。夫の祖父が健在だったころは、我が家の門は開け放たれ神輿は庭深く入り、獅子舞は庭で舞ったそうだ。人々を座敷に上げ、酒肴を振舞った。
 
 折しも、今年のノーベル医学生理学賞は山中伸弥京大教授である。つい先ごろもヒッグス粒子の存在が確認された。人間の智恵は底知れないように見える時代になったけど、人は相変わらず死すべき運命を背負いながら、近未来さえ予測できない。古来変わらぬこの人間ゆえの不安定さが、スーパーパワーを求めてきたのではないか。縄文以来の様々な呪術もそのことと無関係ではないだろう。

 6世紀に日本にもたらされた仏教は、それまでの呪術とはまったく違い、新しい哲学的解決を人々に(特に支配者層に)与えた。次々に寺院が麗々しく建てられるようになった。なんだか“腑に落ちない感”が人々の心に巣食う。“こうじゃないんだよなあ、なんか違うなあ”。そんな思いが人々に神社を作らせたそうだ。仏教の興隆に伴って神社が出現したというのは興味深い史実である。1万年以上かけて日本人に染みついた縄文的体質が、鳥居、しめ縄、紙垂、狛犬、キツネ、おみくじ、森を必要としたのだそうだ。神社は現代になお生きる呪術の場なのではないだろうか。あるいは現代に残る縄文かも知れない。

 そんな訳で、加賀藩が特別に注視し用心したという、浄土真宗に染まったこの辺りでも、それはそれ、これはこれで両立するのであろう。かくて「祓い給え、清め給え」を謳う秋祭りも終わり、次はお寺の報恩講、11月には村報恩講があり、今度は寺の僧が家々を巡るのだ。外国人が驚く私たちの柔軟さも日本人なりの歴史的理由がある訳だ。 

付記1
 波自加彌神社はもとは河北潟から越中へ続く山越えの途中の四坊高坂村にあった。戦火(多分源平合戦)で焼かれ、この村の正八幡宮に身を寄せた。後“庇を借りて母屋を取る”がごとくになった。文久のころには正八幡宮の名も使われていたのだろう。
付記2
 四坊高坂村は、四坊すなわち四つのお寺がある栄えた村だったのだろう。このあたりは田近郷で、河北潟から越中へ行く道を田近道あるいは田近越えという。波自加彌は“田近の神”がなまったものとも考えられる。現に波自加彌神社の神主の名は田近さんである。
(2012年10月 satoyamachika記)

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