2019年3月30日土曜日

伊東哲(さとし)の物語 2 NHKエデュケーショナルがやって来た

自画像 東京美術学校卒業制作

沈思の歌聖 絵葉書
2007年は東京芸術大学創立120周年に当たり、卒業生の自画像展が開催された。NHKエデュケーショナルは芸大卒業生自画像に焦点を当てた特集番組を企画した。先ず企画チームスタッフが何の予備知識もなく自画像を見て、スタッフの目や心に訴えかけた自画像を選び、それを描いた作家の足跡を辿るという斬新な企画だった。その中の一つが無名の画家、伊東哲の自画像だったというのだ。
大正5年に描かれた彼の自画像は、ダークブラウンの毛皮の襟のついたマントを着、見るものに挑みかかるような鋭い眼光を向けている。優しさも穏やかさのかけらもない怖い顔である。そのポートレートを追って、NHKが哲の生家である我が家にも取材に来たのだ。NHKのロゴなどどこにも見当たらないバスに乗って5,6人のスタッフでやって来た。
彼らは千葉県に住む画家の令息や、石川県立美術館などでの取材を終えており、哲が描いた第八回帝展入選作“沈思の歌星”事件のことをすでに把握していた。我が家の伊東哲ミニギャラリーや、これまでの入選作が我が家に疎開して置いてあった場所などを取材した。晩年カレンダーの裏などに描いた細胞画や哲が台湾で描いた八田与一像、烏山頭ダム工事画の写真も収めた。
スキャンダラスな美人、柳原白蓮を描いたことで、哲は痛烈なバッシングを浴び画壇を去ったという話は、彼らNHKスタッフの最も興味とするところだった。何と言ってもストーリー性があるのだから。後にスタッフの一人河邑厚徳氏は著書『藝大生の自画像』(NHK出版)で「調べが進むにつれ、予想外のドラマが隠されていることが明らかになってきました。伊東は運命に翻弄され挫折した人物でした」と、ことの経緯を詳しく述べている。
問題の“沈思の歌星“は購入され、東京丸ビルに飾られていたが、戦災で焼失した。私の義父は制作当時、哲叔父宅に下宿していて絵の進み具合をその目で見た一人だった。“画面が三段になった変わった絵で、その真ん中の林で白蓮が、歌を作っている絵やった。わしが見た頃は最後の仕上げ段階やった”と、言っていた。
NHKの調査で、その絵のカラー絵葉書(当時展覧会で売られていたもの)が、白蓮の長女蕗冬さん宅に残されていることが分かった。(実は哲の後妻宅にも一枚残されていて、私と夫はすでに見ていた)。初めてその絵を見た時、私はボッチチェルリの“春”を連想した。背景に樹木があり、足元に草花が散らばり、詩作する白蓮がスッと立っている。義父が三段といっていたけれど、実は画面が縦に三分割されていたのだ。分かれ目は太い柱で、柱と柱の間の上部はアーチになっている。いや、額がそういう特別しつらえだったかもしれない。確かに変わっている。しかも白蓮はオレンジ色の着物に黄色の打掛を羽織って、かなり目立つ。実はこの打掛もスキャンダラスなものであることを私たちは初めて知った。
白蓮長女蕗冬さん宅でのNHK調査によって、その打掛は白蓮が彼女の伯母に当たる二位の局(明治天皇の側室で、大正天皇生母)から下賜されたものであったのだ。筑紫炭鉱王の妻であった白蓮が東京帝大生と駆け落ちし、夫への離縁状を新聞紙上に発表するというスキャンダルからすでに6年が経っていた。彼女は詩作だけではなく、徐々に女性解放運動に向いてゆく。白蓮はわざと天皇家由来の打掛を着て、女性を縛る社会への不屈の精神を現す自分を描いて欲しかったのだ。哲はそのことを承諾して描いたに違いない。ボッチチェルリの“春”にも右端に暗雲を暗示する天使が描かれている。哲も“春”が頭にあったのではないかと私は思う。暗示は大胆にも柱とアーチということだろう。ずばり女性を縛る社会の枠ということではなかったか。
NHKはその経緯を踏まえ「その意味では、画家として伊東は、無防備でイノセントでした」とし、数奇な運命に翻弄された画家ととらえた。それにしてはNHKスタッフの目に留まったほどの自画像の不敵さは何なのだという疑問が残る。はたして“無防備でイノセント”だったのだろうか。私は家に残されている、伊東哲の兄平盛の当時の日記を調べたり、帝展初入選時の哲の新聞コメントを探したりして、私なりに調べてみた。
大正5年10月19日の北國新聞に“非凡の画才”と題して、“伊東哲文展西洋画初入選”の記事がある。その中で彼の抱負や理想として兄平盛氏に宛てた哲の書信を紹介している。 「私が文展に入選するのは当然であります。もし落選したとしてもそれは私の技量と思想とが審査官諸士と全く違った方向に道を取ったという事実に帰着します」と書いている。不遜と言っていいほどの自信である。
問題の第8回帝展作品“沈思の歌星”当時の平盛日記(付記1)によれば、哲は第8回帝展では明らかに特選を狙っていたし、かなり自信もあったことがうかがえる。哲は5人兄弟の上から2番目。この兄弟は、学生の頃兄弟誌“山百合”を作っている。そこには哲は世間おもねることのない確立された自己を持つ人であったことが明らかに読み取れる。大正5年発行の第3号で、哲は“真の自己”(付記2)と題してこう書いている「吾々が真に従わなければならぬものは自己内心の真実においてである」と。
社会に迎合することなく,自己に忠実であることが大切と哲は主張している。“自分は内心そうおもうけど、世の中そうはいかないから”と、大方の人は自分擁護のため無意識にもダブルスンダートを持つ。が、伊東哲はそのことを最も嫌っている。自分に忠実であろうとする人間であることがよく分かる。
 柳原白蓮も全くそのような人であった。哲は白蓮の生き方やそれを縛るものに対する彼女の挑戦の思いもよく理解し共感したであろう。“沈思の歌星”は白蓮と哲共同の社会への挑戦状だったのだ。バッシングはむしろ当然の成り行きだったのだ。画壇からは“売名行為”ととられ、無能の画家からは妬みを受け、“お前はジャガイモのような田舎夫婦や農夫を描いておればいいのだ”と書かれ、白蓮は“変態性欲の狂女”と再び揶揄された。
 伊東哲はNHKが言うような無防備でイノセントでは決してなかったのだ。白蓮と共に社会や画壇と対峙したのだ。そこに彼の画家としての匠気がなかったわけではない。特選を狙うほどの気合のいれようだったということだろう。これでようやく見る者を射るような鋭い眼光の自画像と、“沈思の歌星”事件との整合性を見ることが出来た。
 取材を終えたNHKエデュケーショナルは、そのうちNHKスペシャルでも放送されるでしょうと言い置いて帰った。ところが数か月後、番組は芸大との共同制作となったため、伊東哲に関しては申し訳ないけど、一部だけの紹介になってしまうとの連絡を得た。NHKエデュケーショナルが最も興味を示したあの黄色の打掛が、その原因ではなかったのだろうかと私は推測する。天皇家に触れることは女性週刊誌ならいざしらず、NHK上部にとっては今なおとてもデリケートで、できるなら地雷を避けてソフトペタルでゆきたい問題なのだろう。NHKエデュケーショナルの調査で“沈思の歌星”に隠された意外な事実が浮かび上がった。しかしNHKの社会的縛りにより、それは消された。この皮肉な対比劇にNHKのいかにも日本的なダブルスタンダードを見た思いである。
(2013年2月satoyamachika記)
 付記1 兄平盛日記
昭和2年10月16日。明日は帝展の審査日なりと よき便あれかし。
昭和2年10月17日。東京より通信あり 特選候補なり乍ら至難という 魏を得て蜀を望む心地す。
昭和2年10月20日。帝展特選ははづれたるか如し 残念なれども欲が深うすぎるかも知れぬ。
昭和2年11月9日。國府氏 左の沈思の歌星に題する詩を送る。(國府氏とは國府犀東のこと、彼は隣村、二日市出身の宮廷漢詩人であり、平盛と親交があった。平盛は大変篤実な人で、長兄として終生弟たちの面倒をみた。帝展特選を逃し、落胆する弟を気遣い親交のあった國府犀東に頼んで励ましてもらっている。沈思の歌星に関する批評が気になり金沢の本屋で美術関連の雑誌を求めている。日記左に書かれた漢詩は省略する。内容は沈思の歌聖がどういった絵であるかを書き、最後に後の世に理解者が出るのを待て、というような消沈の哲を励ます漢詩である)
付記2 兄弟誌『山百合』第3号の中から
私に於いては私はいつでも赤裸の私自身を語ることなしに一語も成すことが出来ないのである。私の書くことは間違っているかもしれない私にとって私が心から信じたことのみを書く(中略) 悲しむべき両者の(自分と他の兄弟のこと)この相違は永久に調和し融合する時期がこないであろう。私はこの私の見方を正統とし益々斯の如き素質の生長を望んでいるのに反し諸君は非社交的不合理な言葉として又考えとして私とは全然反対の立場に居られるのである。『多数が悪いと見たならばその行為を治すのが社会である』と或る人が言うだろう、然しこれは最もくだらぬ常識的解釈であって一般階級の上に出ることが出来ぬ。これは進歩なき社会の状態である。社会は絶えざる進歩の道程である(中略)社会は同一の状態持続でないことだけは事実である。(中略)吾々が真に従はなければならぬものは自己内心の真実においてである。これから発したものが最も尊敬すべきものである、芸術に於いて最も然りである」

0 件のコメント:

コメントを投稿