花園の文化財、宝
誓入寺の釈迦像
誓入寺の釈迦像 |
石川県河北郡花園村出身の八田與一、伊東哲の物語、そして現在の金沢市花園地区の里山を紹介します。ホームページ”寛太郎の家”を引き継いでいます。内容はContentsをご覧ください。 Yoichi Hatta and Satoshi Ito, born in this village, will be described.
花園の文化財、宝
誓入寺の釈迦像
誓入寺の釈迦像 |
波自加彌神社は奈良時代に四坊高坂に創建されたと伝えられる。波自加彌神社誌には下記のように書かれている。
左の写真は内灘の道の駅から河北潟越しに東の方を写しているが、将にその秀麗な姿を見ることができる。
古来、高く美しい山は信仰の対象で、富士山や白山、立山など全国に見られる。高坂山は標高200mくらいで高山とは言えないが、そのような対象であった可能性がある。この周辺には縄文遺跡も見つかっているので、そのころから多くの人々が暮らしていた。山は住みやすい豊かなところだったのだ。波自加彌神社の創建は奈良時代とされているが、実際はもっと古いのではないだろうか。
石川県立歴史博物館蔵 |
波自加彌神社と善照坊(3)で善照坊が河北潟水運の勢力から支持を受けていたという推論を述べたが、ほぼ同じ内容の記述が既にあることを見つけた。
角川日本地名大辞典の石川県吉藤村についての解説記事である。以下にその内容を転載する(下線は著者)。善照坊と専光寺が日本海や内陸の流通路を把握していたようだ。
(中世)鎌倉期から見える村名。加賀国石川郡大野荘のうち。正中2年9月24日の大野荘地頭得宗家代官足立三郎左衛門入道厳阿の注進に基づく「大野荘臨川寺領目録」に,地頭分としてあらわれる「吉藤新保」が初見(天竜寺文書)。惣田数14町7反5代,除1町8反,定田12町9反5代,米173石8斗2升,銭6貫400文と注進されている。おそらく黒田村の一部が,下地中分によって,もとの村から分離されたものであろう。永享9年9月25日の真宗大谷派専光寺所蔵「三帖和讃」奥書には,「賀州吉藤専光寺常住也」と見える(銘文集成)。蓮如が吉崎道場を開く34年前,すでに吉藤村にあった専光寺は,本願寺派に属していた。「大谷一流諸家分脈系図」によれば,専光寺は「石川郡大糠(おおぬか)郷」(現在の金沢市大額(おおぬか)町付近)に,正和2年に創建されたとし,「吉藤専光寺史」は,文明年間に大糠から吉藤に移ったと伝える(続真宗大系)。専光寺と並んで,いま1つほかから吉藤に移転して来たと伝える真宗寺院に,真宗本願寺派善炤(照)坊がある。もと河北(かほく)郡八幡(やわた)村にあり,専光寺とともに移り,明応7年4月28日の「加州石河郡大野庄吉藤専光寺門徒願主釈証賢」の裏書をもつ「親鸞・蓮如連座画像」を伝蔵している(銘文集成)。両寺ともに,吉藤村に近い宮腰(みやのこし)湊と深い関係をもつ石川郡野市(ののいち)や河北二日市などの交通路の拠点近辺に旧寺地を有しており,内陸から流通路に沿って吉藤村に移転し,日本海や内陸の流通路を掌握して,北加賀の一向一揆を指導する大坊主に成長した(大徳郷土史)。その後,新しい一揆の組織化を目指した享禄の錯乱で退転し,「加州慶明前吉藤下」「直参衆二口教西是ハ専光寺ヘ直之坊主」「直参前善照坊下」と見えるように,その門徒は本願寺直参門徒に組み込まれた(天文日記)。前田利家加賀入部の後は,天正11年8月17日の前田利家知行所付に「九拾町九段小四拾五歩 専光寺村」とあるように(拾遺温故雑帖),寺名が地名に転じた。現在の金沢市専光寺町付近に比定される。なお天正年間には金沢へ移ったとされており(吉藤専光寺史),善炤坊も寛永元年には金沢に転じた(寺社由来)。
善照坊は尾山落城の後輪島へ亡命します。その後許されて金沢の公儀町で寺を建てました。公儀町の名は、おそらく幕府への配慮から高儀町と変わりました。近年になって町名は長土塀に替わりましたが、善照坊の場所はそのままです。下記の善照坊由来記は善照坊の高儀町時代のもので、その後長土塀時代になって公開されている善照坊由来記抜粋(花園村春秋 Hanazono Village : 善照坊は波自加彌神社の社僧だった (yawatayama.blogspot.com)とは少し内容が異なります。波自加彌神社の社僧であったことに全く触れていません。その時代の何かの事情があったのでしょう。ただ、蓮如上人が一泊して教えを受けたという話は本当かもしれません。別の資料にそのようなことが書かれています。
善照坊由来記
抑もそも当寺開基は聖武天皇天平年中の頃に至りて泰澄大師越前越智山より出で給い諸寺諸山を開闢せし時常随の高弟にして禅覚法卯真言法脈を伝えて石川郡大野庄吉藤の里に一宇を建立して浄経坊と名く己来三十一代真言宗を総承す然るに文明年中に至りて真宗本願寺第八代蓮如上人北國御巡化の折節一夜の宿を浄経坊に請い給う故に当時の阿闍梨円乗速やかにお宿を申せし処幸いに上人は真宗念仏他力易行のことはりをねんごろに説き給えしに直ちに上人の教化に信順して遂に真言宗を改めて浄土真宗となりその時上人自らを浄経坊を善照坊と寺号を改めさせられ円乗を證賢と名付けさせられその後上人尾山城本丸に本源寺再興せられし時證賢は本源寺を守護し寒暑を問わず伺候して上人の教化を助け常随のお弟子となり日夜浄土真宗発展の伝道に力を尽せりまた上人御歳八十四歳にしてお病気御見舞い看護せし時上人御形見として一尊の御影を御自書ありて授けしめ給うにより世には伝えて善照坊二尊仏と称せり
善照坊 |
加賀一向一揆が壊滅した天正8年(1580)、能登輪島崎に亡命し、寛永元年(1624)に金沢公儀町(現高儀町、現在は長土塀)の現在地に移ったと伝える(貞享2年自社由緒書上)。
輪島市善竜寺には、善照坊所蔵のものと同寸法で、明応7年の同内容の裏書の写しを有する親鸞蓮如連座像がある。しかし、貞享2年(1685)、善照坊証口が専光寺へ差し出した四尊裏書御絵伝裏書等写之覚(前掲留之帳)によれば、聖徳太子絵像と七高僧絵像は、慶長15年(1610)本願寺教如が、吉藤専光寺門徒大野庄吉藤村善照坊の玄浄に下付したものであり、また寛永17年の本願寺御印書写(専光寺文書)は吉藤専光寺下加州大野庄吉藤村の善照坊証玄に宛てられており、慶長―寛永のころには吉藤村に所在したことがわかる。
金沢移転が最初に確認されるのは寛文元年(1668)の本願寺御印書写(同文書)で、「加州石川郡金沢善照坊照恵」に宛てられていることから貞享2年の書上という寛永元年移転説は寛文元年の誤伝とも考えられよう。
本願寺の東西分派の際、教如派に属し東方となったが、「亀の尾の記」によると享和年中(1801~04)、あるいは寺伝によると寛政9年(1797)西方に転派し現在に至る。
近世は親鸞蓮如連座像が「二尊仏」として著名になり、当坊の代名詞となった。
かつて宮腰港があった |
下記の小文は花園小学校120周年記念誌の中にある、」善照坊についての、」記述である。
「善照坊 現金沢市長土塀2丁目
吉藤山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。二尊仏と通称される。
寺伝によれば、開祖円乗はもと河北郡八幡村の真言僧で浄経坊と号したが、文明年中(1469~87)蓮如の北國巡錫の際真宗に改宗し、石川郡吉藤村に居を定めたという。
明応7年(1497)4月28日、同軍大野庄吉藤専光寺門徒証賢が、蓮如から親鸞蓮如連座像を下付されており(専光寺文書)、当寺専光寺の門徒であったことがうかがえる。享禄の錯乱において同寺とともに加州三カ寺派に属して敗北し、門徒は本願寺の直参になったものと思われる。
「天文日記」によれば、天文12年(1543)6月14日直参「前善照坊下」の河北郡浅野谷(現津幡町浅谷)の祐道が本願寺の御堂当番(30日番衆)として上番しており、続いて同16年12月18日には直参衆「前善照坊下」石川郡赤土の正誓、また同21年7月17日には加州直参衆「前善照坊下」河北郡二日市の道念が上番している。」
古代の河北潟 |
浄経坊(後の善照坊)は波自加彌神社の真言宗の社僧として務めていたが、32代円乗のとき蓮如上人の浄土真宗に帰依、吉藤村に善照坊を開基したとされている。善照坊には八幡、百坂、鷺ノ森に道場があったという。
蓮如上人北國布教まで八幡にいたはずの円乗がかなり遠く離れた吉藤村に寺を構えることができたのは何故か、そして八幡の外に百坂、鷺ノ森に道場を設けることができたのは何故か。
古代の河北潟図は平川南著 日本の原像(2008年小学館)より転載した。
現在の金石本町あたりに古代の港があり、渤海使を迎える館や官庁があった。弘仁14(823)年加賀国が越前国から分離されたとき、国府は当初このあたりにあったという説もある。図の左下のあたりは宮腰と呼ばれた古代から中世にかけての港があり、平安時代には北加賀で大きな勢力を持っていた「道の君」の居館があった所と推定されている。
吉藤村は現在の専光寺町で、浄土真宗の極めて有力な寺院専光寺(吉藤専光寺)があった。専光寺は現在金沢市本町にあるが、おそらく前田藩からの指示で移動したと思われる。中世には大型船もあって、加賀の米は宮腰から敦賀まで船便、敦賀から陸を通ってまた琵琶湖から船で都まで運ばれた。宮腰のすぐ北には大野の港があり、河北潟を通して北加賀や越中と物資が運ばれた。港は輸送の拠点であり、支配者にとっては重要な収入源でもあった。専光寺周辺には富や人の集積があったものと思われる。鷺森は吉藤村に隣接しており、このような物流に関わっていた可能性がある。
百坂の西には現在も蓮根田が広がり、北は吉原(もちろん葦の原)であって、湿地帯の山側であった。河北潟の水運は百坂まであったかもしれない。吉原から越中へ物資を運ぶ小原越えの起点でもあった。八幡は同じく越中への脇道である田近越えの中間点四坊高坂への近道があり、すぐ隣の二日市まで河北潟への水路があった。
百坂道場主と鷺森道場主は共に五十嵐家で、両五十嵐家は何らかの関係があったと思われる。善照坊と五十嵐家は蓮如以前から有力な物流勢力を築いていたのではなかろうか。善照坊が吉藤村に開基できたのは五十嵐家の力かもしれない。
善照坊は1488年の一向一揆の後の後1531年の大小一揆に小一揆側で参戦して敗れ、多くの門徒を失った。ということはそれまでは多くの門徒のいる有力な勢力だったことを示す。さらに1582年尾山御坊の落城の際、一揆方の代表の一人として名前が出てくる。善照坊は一人の僧侶というよりはかなり宗教的権威も兼ねる有力な豪族であったのではなかろうか。
黄金清水 四坊高坂の波自加彌神社 創建の地とされる |
波自加彌神社はもともと四坊高坂にあったが、源平の戦の際に焼け出され、現在の花園八幡後にあった正八幡宮に庇を借りた。明治の始めのころに四坊高坂に田近村役場が置かれた。田近村は後に他の村と合わせて花園村になるが、このあたりの中心的な集落であった。縄文海進のころは加賀朝日やその周辺の山地のところどころに縄文の遺跡が見つかっているので、現在「やま」と呼ばれる地域に多くの人が住んでいたようだ。縄文時代の信仰の事はよく分かってはいないが、自然の猛威や自然の恵みの中で暮らしていくなかで、人知を超えたものに祈っていたに違いない。日本の神道は土着の宗教が仏教の影響を強く受けて出来上がってきたらしい。波自加彌神社の成立については記録がないが、多分縄文のころから「やま」の人達の中心として長く受け継がれてきたと思われる。山は木の実、畑の産物、獣などの食料や燃料、日常の種々の素材などの生産が多く、人々の生活を支えたので、多くの人が住んでいた。平安時代に書かれた延喜式に波自加彌神社が記載されているのはこのような経緯であった。
「天皇」と呼ばれる地は神社の山の頂上で、 この写真の中央奥のあたりである |
卜部兼道郷の神運記にも加賀郡田近郷波自加彌の社は元正天皇の御代に鎮座し竹内宿祢を祀るとある。当社は往古より神明(天照大神)、諏訪明神、春日明神などを祀り、少彦名には木の薬師如来までもあった。特に毎月二日には近郷から諏訪社に参詣する人多く、市が立ったが、この(応神天皇の)御神影があってからは国民の守護神であるから、参拝する人が日夜に盛んになり、前からの神々を末社として波自加彌神社を産土神として尊敬するに至った。坊守の住むところも次第に家数も増え、その村を八幡村と称するので、神社も八幡村の神社と称するようになった。昔は神仏兼敬であったが、後に悉く焼失した。その後寛文10(1670)年11月、卜部兼道郷の門人となった出雲頭藤原正屋の代より専ら神事を行うこととなった。その後元禄(1703)年日向頭正治から当社の由来を卜部兼敬郷へ申請し、縁起及び奥書を申し受け、神前に収めた。
以上を天明6(1786)年8月和泉頭藤原正次へ申し渡したところである。いろいろなことを言い出す人もいるので、後々のためこれを神前に収め置くものである。
天保3(1832)年6月 隠者 北山
善照坊とその三道場 |
善照坊は浄土真宗本願寺派に属する寺院で、現在は金沢市長土塀にあります。花園八幡には善照坊の門徒が6軒あります。その謂れは、下記の善照坊由来記抜粋 で推定できます。
抑もそも当寺開基は、聖武天皇天平年中のころ、泰澄大師越前越路山より出でたまい、諸寺諸山を開闢せし時、常随の高弟にして禅覚法卯真言法脉(みゃく)を伝え、その後河北郡八幡村波自加彌神社(養老2年、718年鎮座)の社僧として代々致仕す。
31代浄経坊円乗師の代、文明7(1475)年本願寺第八代蓮如上人、北國巡化の折、改宗帰依し、翌文明8年3月28日、方便法身尊形の一軸を賜り、加州石川郡大野庄吉藤村に一寺を建立、寺号を善照坊と改む。
●長享2(1488)年加賀一向一揆に参加、富樫政親を敗死せしむ。
●明応7(1498)年蓮如上人御年84歳、御病気御見舞いに参上、上人御形見として二尊連座の御影を授かる。
当寺三道場あり。
●八幡道場 伊東平右衛門
●百坂道場 五十嵐教西
鷺森道場 五十嵐東守了善
お礼上洛の折、三道場主に、余絹も三幅の六字の名号を賜る。
●明応9(1500)年円乗師62歳にて示寂す。
●天文6(1537)年加賀国の大小一揆の乱に小一揆側に参加敗れ、門徒は本願寺の直参として、とりあげらる。善照坊の名、この時はじめて史書(證如上人、天文日記)に現る。
天文3(1575)年上杉謙信、能登侵入の折、亀田隼人、洲崎兵庫等と迎え撃ち敗走さす。
●天正8(1580)一向一揆が加賀の国を百年余り支配せし時、尾山御坊内に坊官として参与す。後、柴田勝家、佐久間盛政に攻撃を受け落城の折、降伏の代表として、本誓寺、広済寺、恵林坊と共に名を連ね、その後輪島に潜居す。
●寛永元(1624)年戦乱収まり、前田氏の治世となり、金沢市高儀町無番地(現在地)へ移る。
●寛政9(1797)年故あって東派より西派に転派、門徒の大部分が離散、大部分は東別院の預かりとなり現在に至る。
田近彰男著 波自加彌神社誌(昭和40,1965年刊)には次のような記述があります。原文は漢字交じりカタカナ古文で読みにくいので、わかる範囲で現代文に訳してあります。
「護国山縁起書」として次の記載がある。
そもそも正八幡宮波自加彌神社と申し奉る宮の謂れは下記のごとくである。
第44代元正天皇(715~724)の御代、養老元(717)年3月15日夕方、この村の東方の空中に大きな火球が輝き人々が驚き恐れたが、しばらくして山頂に落ちて消失した。その後度々その周辺の波自加彌(山椒?)から黒雲が立ち上り、また風雨が吹き荒れることがあったので、人々はあの光の玉の所為ではないかと恐れて近づく者はいなかった。泰澄大師がこのことを伝え聞き、翌年4月13日にここへ来られたところ、丁度黒雲が立ち上り、急に風雨が強まった。大師がそこで「どのような神様ですか、お姿を現し下さい」と熱心に祈られたところ、風雨が次第に収まり、五色の雲が上り、その内側に金色の身に甲冑を帯び手には弓矢を携えた一人の老人が現れた。そして厳然と「私は竹内宿祢の神霊である。昨年光を放って現れたのは16代誉田天皇(応神天皇)が人々を憐み、ここへ垂迹(現れ)されたので、私もまたお守りしているのだ。しかし我らは西方に本国がある。」と宣べて弓矢を残して消えた。そこで大師はこの「お告げ」を伝え、仮に神社を建て弓矢を奉納しまた仏像を彫刻して納め深く尊崇すべきと述べた。人々は安心し喜んで、この神社を波自加彌神社とした。その後、大師が亡くなったとき、天皇はこのことを聞き、堂塔および坊舎を作ることを命じ、神田を寄付し、山を護国山、山頂を天皇、前に流れる川を手洗川と名づけた。延喜式に出ているのはこの神社である。
この土器は金沢市鞍月から出土した弥生時代末期の土器で、その首のあたりの特徴から月影式土器と呼ばれる形をしています。金沢市埋蔵文化財センターに展示されています。花園八幡から数百メータくらいしか離れていない月影集落でみつかった月影遺跡でこの形式の土器が最初に発見されたので「月影式土器」の名前を付けられました。
ところで、花園八幡遺跡から多数の土器が出土していますが、月影式土器は見つかっていないそうです。こんな近い集落なのに何故かと気になります。
実は月影式土器はかなり広範囲に分布していて、山陰地方がそのオリジンではないかというコメントもあります。月影式土器は月影周辺で作られたのではなく、どこかで作られ、月影に運ばれてきたものかもしれません。花園八幡遺跡は弥生時代から古墳、平安、鎌倉時代まで、続いていましたので、月影遺跡ができたころにも人々の活動があったはずです。花園八幡遺跡の弥生式土器はその近辺で制作されていたので、あまり月影式土器に対するニーズがなかったのかもしれません。
旧花園村は河北潟に連なる平野と、越中との国境の低い山地にまたがっている。縄文海進のころは今の平地の部分は海であったと思われる。縄文時代には今の山地に人が住んでいた ので花園村にも遺跡が見つかっている。加賀朝日遺跡は現在の加賀朝日町の旧朝日小学校のある高台の下の畑から発見された縄文中期の遺跡である。
磨製石器と土器が多数発掘されたが、まだ発掘されていないところが残っているようだ。写真は花園公民館1999年刊「花園に生きる」から引用した。発掘には金沢市や森本町、森本中学校などと共に、波自加彌神社宮司の田近彰男さんが参加された。多分その関係で、一部が波自加彌神社に保管されているのだと思われる。
縄文海進が終わり、海が引いて現れた平地で弥生人が稲作を始めた。花園村には月影遺跡や花園八幡遺跡などの弥生時代の遺跡がある。