2019年4月12日金曜日

まずは竹切り 2005年えこナビ2号掲載

レンギョウ

加賀平野が穀倉地帯となったのはいつからだろうか。平野は灌漑なくして水田にはなり得ない。それ以前、水田は水の利のよい山里の谷沿いにあった。金沢市北端の山里のこの地で最近、住宅造成に伴う発掘調査があった。弥生式土器がたくさん出土したそうだが、うなずけるような気がする。言い伝えによれば我が家も平安の昔からこの地に連綿と住み継いでいるそうだ。自然の水の恵みで田畑を耕し、かつ山の幸も利用できる山里は、昔は豊かな地であったのだろう。
我が家でもついこの前まで山の木で燃料をまかなったし、裏山の雑木は十五年に一度ほど河北潟の魚礁として出していた。竹も大事な建築資材、あるいは今ではプラスチックに取って代わってしまったさまざまな生活用品の材料として売れた。コウゾも育て、木の皮を剥いで和紙の原料として出荷した。養蚕を行っていた時代もあったが、止めてからも桑の葉は売れた。今は山の幸は何一つとして糧とならない。無論、植林した杉が売れることもない。
一昨年末帰郷した私達だが、山里の荒れように驚いた。ツタがからまった木は立ち枯れ、熊笹が茂り、竹が山を席巻し、家の周りは鬱蒼としていた。もともと採光の必要などない場所に建てられた我らが住処のこの元土蔵は、一段と厚く竹に囲まれていた。山里暮らしのスタートはまずこの竹切りから始まった。孟宗竹はやけに大きいが、切ること自体は空洞の竹のこと、竹鋸を使えばそんなに大変ではない。けれどその始末が重労働だ。切り倒すとき猫達も総毛立ちでびっくりするほど大きな音で倒れる。
杭を立てた置き場を作り、そこに枝をなたで払った竹を持っていって積み重ねるのだが、太くて長い竹をそこまで運ぶだけでも容易ではない。けれど、こうして整理しながら切り進まないと、切り倒した竹どうしが交錯して、たちまち“竹の海”に溺れてしまって身動きがとれなくなるのだ。重労働のわりには竹は今、使い道がほとんどない。燃すと火力が強過ぎるので薪ストーブの燃料にはならない。竹垣や木々の添え木に多少使えるのみだ。こうして積んでおくしかないのは何とも歯がゆいが、里山の再生には必須だ。
かくしてこの一年、連れ合いはまずせっせと竹切りに励んだ。少しずつ空が見えるようになったり、竹と竹との間から光が射してきたりすると思わず嬉しくなる。先日、これまで竹に埋まってほんの頭しか見えなかった欅が、ついにその全容を表した。それは見事な大欅だった。
こうやって“開墾”したあかつきには、この地域の旧名、花園村の由来の如くサクラ、レンギョウ、梅、桃、水木などの幼木を植え花木の山にできたらいいなと思っている。さらに命長らえることがあるならば、クヌギ、ナラを増やし小動物の生きる昔ながらの山里に戻したいものだ。

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