2019年4月25日木曜日

八田四郎次 化学工学概論の著者

八田四郎次は花園村今町出身の英才で、東北大学工学部長を務め、第10代日本化学工学会会長にもなりました。八田四郎次著の「化学工学概論」は名著の評判が高く、私も学生時代お世話になりました。四郎次は1895年の生まれですから八田與一の9歳下になります。生家は與一の生家八田(屋号は八田屋)から2軒離れた「しおや」という屋号の家です。しおやは八田屋の分家ですが、しおやがどういう意味なのかは分かりません。本家の八田屋当主は代々四郎兵衛を名のっていましたので、四郎次の四郎もこれに関係すると思われます。
四郎次も與一を追うように金沢一中から1919年東京帝国大学工学部に入学、1926年には東北大学助教授、1829年に米国マサチューセッツ工科大学に留学し、1938年に東北大学教授になっていますので、優秀な人だったに違いありません。
伊東哲の弟で金沢医専を出て医師となった伊東政外は八田四郎次と小学校から金沢一中まで同期でした。伊東政外は米国留学中に死亡して日本で葬儀が営まれました。その時の八田四郎次の弔辞を紹介します。その頃の雰囲気の溢れる美文調の文章です。


弔詞

謹んで故伊東政外君の英霊に告ぐ。嗚呼君遂に逝(ゆ)いたるか。悲しい哉。顧みるに君と予とは同じ村に相前後して生まれ未だ東西をも辧(わきま)えざるの幼時より相知り今町尋常小学校四か年と森本高等小学校三か年と同級にて共に学び共に遊び更に金沢第一中学校へも同時に入学したり。斯(か)くて五か年の後大正二年三月卒業するまで合計十二か年の学窓を共にしたりき。独り学校に於いてのみならず私交に於いても亦意気相投ずるものあり。相助け相励まして各々其の赴く所に向て他日の大成を期したりき。君金沢医学専門学校を卒業既に医家として一通りの素養あるに満足せず進んで斯学(しがく)の根本を究め斯道の権威たらんと志し先ず母校に於いてし次いで九州大学に赴き更に東都に出でて岡田博士の門に入るや進境著しきものありき。当時予と寓を近うしたれば交遊常に繁かりき。君更に研鑽の地を海外に求め大正十年春洋々たる希望に充ちて横浜を出帆せり時予も之を埠頭に見送りて前途を祝福したりき。何ぞ計らん之が永遠の離別たらんとは。爾来米国に於いて君の精励は蓋(けだ)し尋常ならざるものあり。着々進境ありしも不幸にして病魔の犯すところとなり君意強く気昂(たか)しと雖(いえど)も病躯立つ能わざるを如何せん。病床に横たわる事数年遂に彼岸へ赴けり。嗚呼悲しい哉君が病床に於ける思いや如何なりけん。既往を省み前途を考え故郷を偲び骨肉を懐うの情切なるものありしならんも万里を距てし異境なるを如何せん。思うて茲(ここ)に到れば予等も亦断腸の思い轉(うたた)禁ずる能わず。然りと雖も君請う安んじて瞑せよ君の志は中道にて已(や)みたるも君が奮闘の意気は万人の士気を鼓舞するに足る。予等又赴く所を異にするも君が意気を体して益々奮励せん事を誓う。一片の弔詞以て泉下に通ずるを得ば英霊希わくは来たり亨(う)けよ。

  大正十四年十一月八日    八田四郎次

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