1927(昭和2)年10月25日消印の犀東から哲の兄平盛へ宛てた手紙には次のように書かれています。
(略)先以而哲様御丹精を凝らされし沈思の歌聖入選ならせられ奉大賀候意外なる紛議を沸騰せしめ由にてお気の毒に奉存じ候充分にや特選あるべき御力量に累度ほせしやにて獨く痛心罷在候(以下略)。また、この手紙には「沈思の歌聖」の絵葉書が添付されており、その宛名面に右のような寄せ書きが書かれていた。右から、白蓮、野田茂重、操、南弘、伊東哲、国府種徳(犀東)です。
おそらく、帝展の会場に集まった旧知のメンバーが絵葉書に寄せ書きし、その一枚を犀東が送って来たものと思われる。
南弘は1869(明治2)年富山県の生まれ。四高、東大政治学科と犀東の先輩で、内務官僚から1912年貴族院議員、1913年から福岡県知事、1918年から文部次官であった。犀東の内務省勤務は南弘の推薦があったのかもしれません。また南弘も漢詩を作り、犀東とは公私でつながっています。白蓮は福岡の炭鉱王に嫁いでいたので、そのころ知事の南弘とは顔見知りであったかもしれません。
哲から平盛へ宛てた1927(昭和2)年10月の手紙の中に、「先夜もある小集会にて南弘夫人、国府夫人、白蓮夫人とこの話題が出ました」という部分があります。話題は国府家の嫁取りの話ですが、これらの人たちが夫人を含めた旧知の間柄であることが分かります。
沈思の歌聖の絵葉書の宛名面への寄せ書き |
1927(昭和2)年12月29日付犀東から平盛へ宛てた手紙では、「今年は図らずも白蓮夫人のご迷惑を相掛、何とも恐縮。歳末に当たり、謹んでお詫び申し上げる」という意味のことを述べています。
これより前の同年8月11日付の手紙では哲が大作を準備していると知らせてきている。犀東が、「沈思の歌聖」の制作過程を把握していることが伺えまる。これらのことから、哲の同郷で、哲の兄平盛と交流のあった犀東が、白蓮をモデルに描くべく紹介したと推定されます。
0 件のコメント:
コメントを投稿